宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

宮城四郎年譜

最終更新:最終更新:2023年4月12日(最新の更新箇所は赤字で記載)


西暦年号

宮城四郎略年譜

1908(明治41)年

12月22日、宮城県白石町(現・白石市)にて医師であり、公立刈田病院外科医長・副院長も務めた外科医師、宮城秀の四男として生まれる。

1921(大正10)年

宮城県立白石中学校(現・宮城県白石高等学校)入学。美術部、柔道部に所属。後に画家となる同級生の吉見庄助と親交を深める。

1924(大正13)年

中学四年生時、夏休み前に木馬跳で右足を骨折。約三か月休学し留年する。

1927(昭和2)年

3月、宮城県立白石中学校卒業(二十四回生)。

11月、宮城県白石市で発足した洋画グループ/洋画展「無名会」に吉見庄助らと参加する。

1928(昭和3)年

弘前高等学校理科乙類入学。美術部に所属。後に詩人・作家となる先輩の小高根二郎らと写生にいそしむ。在学中に肺結核を発病して休学。実家で療養する。

1929(昭和4)年

9月27日から9月29日まで、一番町角はデパート(弘前)で開催された弘前高等学校美術部「サイプレス洋画展」に『水邊』、『女A』、『女B』、『靑衣の男』、『オカリーナ』出品。

11月14日、弘前高等学校中退。

1934(昭和9)年

5月5日から5月14日まで開催された第2回東北美術展に『鐵板を置いた庭』出品。

1935(昭和10)年

4月12日、東北帝国大学文学部美学専攻に聴講生として入学。阿部次郎の講義を受ける。

6月7日から6月16日まで開催された第3回東北美術展に『紫陽花』を出品。

1936(昭和11)年

5月5日から5月17日(当初5月14日までの予定だったが開催期間が延長された)まで開催された第4回東北美術展に『習作(静物)』を出品。

1937(昭和12)年

3~4月、第7回独立展(東京都美術館)に初入選。『風景』を出品。 

5月5日から5月16日(当初5月14日までの予定だったが開催期間が延長された)まで開催された第5回東北美術展に『雪景』を出品。

12月10日から15日まで、「狭間二朗、宮城四郎獨立二人展」を仙台市国分町の工藝社にて開催。

1938(昭和13)年

3~4月、第8回独立展(東京都美術館)に入選。『都会』を出品。

1939(昭和14)年

3月、第9回独立展に入選。『氷原』を出品。

胃潰瘍のため、東北帝国大学昭和14年度の全学期休学する。

1940(昭和15)年

肺尖カタルのため、東北帝国大学昭和15年度の第2,3学期休学する。

1941(昭和16)年

松田春雄、菅原勝太郎、菅原俊、佐藤昇、平山惠太郎、上田耕作ら独立展入賞者と共に東北独立美術協会を結成する。藤崎で5月7日から5月13日まで開催された「東北独立美術協会第1回展」に『作品A』と『作品B』出品。

12月6日、喉頭結核により33歳でこの世を去る。

1942(昭和17)年

3月、弟の宮城輝夫により、第12回独立展(東京都美術館)に遺作『母子像』と『乗馬』が出品される。搬出の際に『母子像』紛失。
2023年1月15日公開