宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)

最終更新:2023年4月12日(最新の更新箇所は赤字で記載)

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管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
B-M4-1963-001 阿部次郎全集第15巻 阿部次郎 1963 角川書店 昭和17年の日記にそれぞれ以下の記載あり。P108、十月三十一日「午後三越行獨立展一瞥、宮城四郎の遺出色」。P109、十一月十九日「宮城四郎遺作展紹介文をかく」。P110、十一月二十七日(東北帝大出勤の)「歸途藤崎に宮城四郎遺作展を見る」。なお、P9、昭和9年の一月五日「……日中年賀状、四時過外出、春日の例會七時より。原、宮城、佐藤と余との四人のみにて他の五人は差支不参。Fall M.」とあるが、これはおそらく、無名会の会員、原龍三郎、宮城音五郎、佐藤彰をそれぞれ指しており、宮城四郎のことではないだろう。
B-M4MT-1974-001 宮城四郎 宮城輝夫の人と芸術 吉見庄助 1974 白石美術愛好会 白石市図書館新築記念の宮城四郎・輝夫展開催に併せて限定300部発行された冊子。宮城四郎・輝夫兄弟について同郷の吉見庄助がその「人となり」や生い立ちを記す。巻頭に宮城四郎の油彩画『雪の街』と『三陸海岸』のモノクロ図版掲載。『雪の街』は他の資料では、『風景』というタイトルを付されている。P7に宮城四郎が弘前高等学校に入学したのが「昭和五年四月」という記述があるが、「昭和三年四月」が正しい。P13に、宮城四郎が没後も含めて三回、独立展に出品したという記述があるが、正確には四回の出品である。P13に、最後の独立展出品作のタイトルが「馬」と記されているが、「乗馬」が正しい。
B-M4-1976-001 詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄 小高根二郎 1976 国文社 「『夏花』期」の「昭和十五年」の章、P471に以下の記述がある。「平井弥太郎君は私の大学時代の画友の一人だった。宮城県の白石中学を出ただけのランボーきどりの少年だった。私は高校時代の友人Mと蒼穹会という絵の会をつくったが、友人が紹介してきた平井も会員の一人に加えたのだった」。この「友人M」とは、おそらく、小高根二郎と弘前高等学校で同じ美術部に属し、平井弥太郎と同郷で蒼穹会に所属していた宮城四郎のことであろう。
B-M4MT-1976-001 青春のうた 白石高校 毎日新聞仙台支局編 1976 毎日新聞仙台支局 P121-124『芸術への道②』にて、宮城四郎が、P124-127『芸術への道③』にて、宮城輝夫が、それぞれ高校時代のエピソードと共に紹介されている。『城山運動会②」中、P88にも学年対抗リレーの結果に抗議した四年生の一人として四郎の名が挙げらている。他、小室達、平井弥太郎、大泉茂基らが取り上げられている。当ウェブサイトのテーマから外れた余談になるが、白石高校出身の宍戸錠のエピソードも面白い。
E-M4MT-1981-001 「所蔵作品展 みやぎの美術」図録 宮城県美術館 1981 宮城県美術館 宮城県美術館開館記念に開催された同展図録。P81に宮城輝夫『月の番人』モノクロ図版掲載。「解説」と題した文中、P103に宮城輝夫への簡潔な言及あり。出品目録中、P107に『月の番人』の簡単な説明掲載。P125、「宮城県美術関係年表(1876~1942)」の1941(昭和16)年に「松田春雄、宮城四郎、上田耕作ら独立展入選者により東北独立美術協会が結成される。」と記載あり。
B-VA-1985-001 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み 成瀬忠行 1985 成瀬忠行 P10「宮城県洋画人物故作家一覧(明治・大正・昭和」に「加藤正衛 平和の願い(油)」、「狭間二郎 カット」、「樋口加六 白馬岳(油)」、「宮城四郎」の記載、P42に加藤正衛の略歴と「平和への願い」モノクロ図版掲載。P43に上田耕作による随筆的な文章「加藤正衛君のことども」掲載。文中には「宮城輝夫君を中心に新鋭の若者達を一丸として誕生したエスプリヌーボーにも参加して」との記載もある。P47に狭間二郎の略歴と、何かの挿絵の再録であろうか、「カット」とキャプションの入った絵のモノクロ図版掲載。P48に樋口加六の略歴、「白馬岳」モノクロ図版、元仙台市長の島野武が「個展案内状」に寄せた短い文章「樋口画伯と私」掲載。その文中では、「大正9年の元旦、彼と一緒に仙台から裸のマラソン塩釜神社の元旦詣り」したことが記されている。P56に宮城四郎の略歴掲載。「昭和2年弘前高校入学」と記載されているが、昭和3年が正しい。「昭和10年独立美術展初入選」とあるが、昭和12年が正しい。P65に樋口加六が中島哲郎の昭和45年の個展に寄せたのであろう短い文章掲載。P75からの「宮城美術年表」では、P77の昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。P80からの「2.宮城県連合美術展について」では、P82の「第3回展 1958年(昭和33年)」と「第4回展 1959年(昭和34年)」の「参加グループ」に「エスプリ・ヌウボオ」の名前が見える。P89からの「宮城県芸術協会絵画部記録」の「洋画の部」では、「第1回宮城県芸術祭選抜美術展」の審査員に狭間二郎の、「宮城県芸術協会委員展」の「出品者」に二宮不二麿と加瀬正衛(加藤正衛の誤記であろう)の、「第4回宮城県春の芸術祭絵画展」の審査員に二宮不二麿と加藤正衛の、「第8回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に加藤正衛の、「第10回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に二宮不二麿の、それぞれの名前がある。P112、「河北美術展顧問招待委嘱作家(60.現在)」の「洋画」に「招待 宮城輝夫」の記載あり。P114からの「宮城県内各種団体会員名簿(59.現在)」では、P119で「オブジェ・パーティⅡ」に石川舜、大嶋貴明、高山登の名前がある。
B-M4MT-1986-001 エロスと創造のあいだ 22人の美術家との対話 ヨシダ・ヨシエ 1986 展転社 美術評論家のヨシダ・ヨシエと宮城輝夫の対談『宮城輝夫 暗闇に変化する植物・器官・人間』収録。川端画学校入学時からの様々なエピソード、戦前に携わった芸術活動、制作方法や考えにいたるまで、幅広く輝夫が語っている。また、ヨシダの「たしか戦前、左翼運動にもかかわっておられたとか?」という質問に対し、「いや、僕のすぐ上の兄のことです。左翼関係の本をよく読んでいて、刑事がきたりしました。」と四郎についての簡単な言及もある。
B-VA-1986-001 河北美術展50回記念宮城県美術館開館5周年記念河北美術展半世紀の歩み 宮城県美術館河北新報社 1986 河北新報社 P59に1974年の第38回河北美術展で文部大臣賞を受賞した大嶋貴明『Landscape'1984'』のカラー図版掲載。佐藤明による文章『河北美術展のはじめの頃』中、P63に宮城輝夫、上田朗、佐々木正芳への言及がある。塩田長和による文章『河北美術展に生きる』中、P66に狭間二郎への言及がある。酒井哲朗による文章『河北美術展50回記念に寄せて』中、P70に狭間二郎の発言の引用がある。P85に大嶋貴明の略歴掲載。年表中、それぞれ以下の記載あり。P90の1932(昭和7)年6月、「第1回蒼穹会洋画展,宮城四郎,小高根二郎,安田豊ら。勝本,児島の東北大教授らも特別出品(旧明治製菓 4~6日)」。P92において、第5回東北美術展の開催期間が「5月5日~14日」と記載されているが、当初の予定よりも開催期間が延長されたため、「5月5日~16日」が正しい。P100の1953(昭和28)年9月、「第1回エスプリ・ヌウボオ展(仙台市公会堂 19~23日)」。同ページ、1954(昭和29)年7月、「エスプリ・ヌウボオ第2回展(丸光 6~11日)1日付で機関紙発行」。P107の1964(昭和39)年9月、「仙台アンデパンダン展(三越 29~10/12日」。P112の河北美術展第33回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市教委賞「作品」翁 恵美(仙台)」。P113の河北美術展第34回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台美術館賞「女の首」翁 譲(東京)」。P114、河北美術展第35回展について「■本年から新たに下記の諸氏が招待作家に推せんされた。日本画 能島康明,洋画 宮城輝夫,彫刻 土屋瑞穂」。P116の河北美術展第37回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市美術館賞「ヤエ」翁 恵美(仙台)」。P117の河北美術展第38回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「一力次郎賞「赤いセーター」翁 恵美(仙台)」。また、同展について「■本年から彫刻の翁観二氏が招待作家に推せんされた。」。同ページ、1974(昭和49)年5月に、「宮城四郎,宮城輝夫絵画展(白石図書館 25~29日)同館の開館記念展」。P118の河北美術展第39回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「河北賞「クロッキーブック」翁 恵美(仙台)」。P119の河北美術展第40回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「宮城県芸協賞「回想」翁 恵美(仙台)」。P123、河北美術展第44回展について「■本年の特別賞は日本画小野恬氏,洋画宮城輝夫氏が受賞した。」。P126、河北美術展第47回展について、顧問に推薦された中の一人として、翁観二の名が挙がっている。「河北展入賞・入選者名」に、以下の名前が見える。P130、第1回に「小高根二郎(仙台)」、第2回に「宮城四郎(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第3回に「吉見庄助(東京)」、「宮城四郎(仙台)」、「宮城輝夫(東京)」、第4回に「狭間二郎(宮城)」、第5回に「狭間二郎(仙台)」、「宮城四郎(仙台)」。P131、第6回に「宮城輝夫(東京)」、第7回に「宮城輝夫(宮城)」、第10回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第11回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」。P132、第12回に「加藤正衛(宮城)」、第13回に「加藤正衛(宮城)」、第14回に「加藤正衛(仙台)」、「針生鎮郎(仙台)」。P133、第15回に「宮城輝夫(白石)」、「針生鎮郎(仙台)」、第16回に「宮城輝夫(白石)」、「佐々木正芳(仙台)」、第17回に「狭間二郎(仙台)」、「糸井貫二(仙台)」。P135、第23回に「石川舜(仙台)」、第24回に「石川舜(仙台)」、「加藤正衛(仙台)」、第25回に「村上善男(盛岡)」、「石川舜(仙台)」、P136、第26回に「新国誠一(仙台)」、第28回に「石川舜(仙台)」、「永寿慎一(仙台)」、「鈴木光一(宮城)」。P137、第29回に「永寿慎一(仙台)」、「石川舜(仙台)」。P138、第33回に「翁ひろみ(仙台)」、第34回に「翁譲(東京)」、「翁恵美(仙台)」。P139、第35回に「翁恵美(仙台)」、第36回に「翁譲(東京)」、「翁ひろみ(仙台)」、第37回に「翁恵美(仙台)」。P140、第38回に「大嶋貴明(仙台)」、「翁恵美(仙台)」、第39回に「翁恵美(仙台)」、第40回に「翁恵美(仙台)」。P141、第41回に「翁恵美(仙台)」。「出品目録」、P147に大嶋貴明『Landscape'1984'』の作品情報掲載。
B-M4MT-1987-001 美の旅―春・夏・秋・冬 宮城正俊 1987 宝文堂出版販売株式会社 エッセイ『みやぎの近代美術 その回顧と展望』中、『河北美術展の歩み』の章中、P171で狭間二郎について、『宮城の生んだ彫刻家』の章中、P175において翁朝盛、翁観二、翁ひろみについて、それぞれ触れ、『明日への期待』の章中では、P176からP177にかけて、針生一郎、宮城輝夫、佐々木正芳、針生鎮郎、狭間二郎、樋口加六、宮城四郎についての言及がある。他、P142にも針生一郎の名前がある。P201からP203にかけて翁朝盛についての言及がある。
B-VA-1987-001 宮城県芸術年鑑昭和61年度 宮城県生活福祉部県民生活課編 1987 宮城県 「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P38に「もうひとつ、宮城県美術館の特集展示に県出身の「独立美術の三人」が取り上げられた。狭間二郎、樋口加六、宮城四郎の三人であるが、この世代の画家たちの油絵というものを信じ切った誠実な表現が人の心を打ち、とりわけ宮城四郎の才気溢れる作品に接して、その早世が惜しまれてならない。」という文がある。他、P38に針生鎮郎の、P38からP39にかけて宮城輝夫「風景の中の不随意筋的な風景」展の、P40に高山登佐々木正芳の、それぞれ個展評がある。P40、ホンダ・クリオギャラリーの方針転換に言及する中で、過去に同ギャラリーにおいて「内容のある個展」を開いた者として石川舜、太嶋貴明の名前が挙がる。P44に針生鎮郎「ドボン・オロチ(A)」、P45に佐々木正芳「昼さがり」のモノクロ図版がそれぞれ掲載されている。「各ジャンルの動向」の土屋瑞穂(当時宮城県美術館学芸部長 ※なお、P50では「土屋端穂」と名前が誤記されている)による「彫刻」の章においてP47に、1986年に急逝した井手則雄についての言及あり。
F-M4-1987-001 宮城県美術館特集展示『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』パンフレット 宮城県美術館 1987 宮城県美術館 1987年1月6日から2月15日に開催された宮城県美術館の特集展示『独立美術の3人』パンフレット。A3両面印刷。狭間二郎・樋口加六・宮城四郎についての紹介文と出品作一覧、年譜を掲載。以下、宮城四郎の年譜について指摘と補足。「1926(大正15) 白石中学を卒業」とあるが、1927(昭和2)年が正しい。「1927(昭和2) 弘前高校に入学」とあるが、1928(昭和3)年が正しい。「1928(昭和3) 病気のため弘前高校を中退」とあるが、1929(昭和4)年が正しい。「1932(昭和7) 東北大学文学部美学研究室の聴講生となる」とあるが、1935(昭和10)年が正しい。また、「東北大学」よりも「東北帝国大学」がより正確な表記である。四郎が出品した第2回から第5回の東北美術展を「河北展」と記載しているが、「東北美術展」が正しい。1936年、第4回河北展出品作『習作」の正確なタイトルは他資料によると、『習作(静物)』である。
N-M4-1987-001 河北新報昭和62年1月16日夕刊 1987 河北新報社 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。7面「憩いこい」欄に、同特集展示の紹介記事「みやぎの生んだ独立美術の3人~狭間二郎・樋口加六・宮城四郎~」が掲載されている。当時宮城県美術館学芸員の原田敦子による記事。独立美術協会の説明と特集する3人の略歴が記されている。展示において、現在所在不明の宮城四郎作品「母子像」の「写真パネルも併せて紹介されている」ことが書かれている。
N-M4-1987-002 河北新報昭和62年1月23日夕刊 1987 河北新報社 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。
B-M4MT-1991-001 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み'91続 成瀬忠行 1991 成瀬忠行 画家の没年一覧に「宮城四郎 昭和16年 33歳」の記載、P12に二宮不二麿の、P13に東北学院高校で針生鎮郎や石川舜を教えた粟野耿介の、P46に佐藤明の、略歴がそれぞれ掲載されている。P59の年表では、昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。続くP60で、昭和39年に「仙台アンデパンダン展開催~宮城輝夫」の記載あり。P65の「河北美術展顧問・招待・委嘱作家(平成2年現在)」の「洋画の部」に「顧問 宮城輝夫(仙台市)」の記載あり。
B-VA-1991-001 宮城県芸術年鑑平成2年度 宮城県生活福祉部文化振興室編 1991 宮城県生活福祉部文化振興室 特集一『宮城県芸術年鑑を通して見た本県の芸術二十年』の宮城正俊『「年鑑」による回顧と展望』中、P11からP12に佐々木正芳について、P15に翁ひろみについて、それぞれ言及あり。同特集の小野昌和『精神的な豊かさを求めて』中、P20に宮城県芸術選奨の第一回受賞者として、佐々木正芳、佐藤鬼房らの名前が挙げられる。特集二『宮城県における戦後四半世紀の文化活動史』の西村勇晴『シリーズ(その十一)洋画』中、『河北美術展と新東北美術展』の章において、P36に新東北美術展の第十回展と併催した「明治以後物故作家遺作展」に宮城四郎の作品が展示されたことが記されている。また、同ページでは、新東北美術展の洋画の部の委員を務めた「これから長く本県の美術活動をリードしていくことになる人々」として狭間二郎、宮城輝夫らの名前が挙げられている。『各地の活動』の章においては、P39に狭間二郎が「仙台独立美術会を再結成」したことについて、P40に宮城輝夫と吉見庄助が1948年に「白石造型美術展」を創立し、1950年には「東北造型美術展」と改名して「地域をこえた活動」を行ったことについて、それぞれ記載されている。P43からP47の『エスプリ・ヌウボオ』の章においては、同グループの活動が記載され、佐藤英哉、宮城輝夫、加藤正衛、吉見庄助、昆野勝、狭間二郎、上田朗、佐々木あゆみ、佐々木正芳、新国誠一らの名前が現れる。P47からP48の『東北現代美術連合展』の章においては、吉見庄助、宮城輝夫、清野恒・克己兄弟、狭間二郎、ヨシダ・ヨシエ、昆野勝、岡本信治郎佐々木正芳、佐々木あゆみ、上田朗らの名前が現れる。P51からP53の『仙台アンデパンダン』の章においては、宮城輝夫、佐々木正芳、上田朗、加藤正衛、針生鎮郎、田辺和郎、石川舜、村上善男、松沢宥、小野忠弘、岡本信治郎池田龍雄、豊島弘尚、糸井貫二、鈴木光一らの名前が現れる。P54の『おわりに』においては、宮城輝夫、佐々木正芳、佐々木あゆみ、吉見庄助らへの協力に対する謝辞が述べられている。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P77に「宮城輝夫の「陽炎狩り」と題する個展は、ガラス絵など新作五十二点の展観であったが、この画家特有の明快な神話的イメージの世界が存分に展開されていた。」という文がある。また、田辺和郎の個展についての言及もある。P77からP78にかけて、石川舜が東京の田村画廊において開催した個展「バルゼア(堆積原)未明―歪みの系譜」への言及がある。P78からP79にかけて、宮城県宮崎町(現加美町)で開催された「1990夏・宮崎町美術展」における石川舜の「パフォーマンスと関連した一種のライト・アート」についての言及がある。P83に石川舜「バルゼア」のモノクロ図版掲載。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「彫刻」の章において、P88に高山登、翁譲への言及がある。P90に高山登インスタレーション」(宮城県美術館中庭)のモノクロ写真掲載。
B-VA-1991-002 続仙台画人伝 大林昭雄 1991 ギャラリー大林 P163に宮城四郎の略歴が掲載されている。ただし、「昭和二年 弘前高校中退。」とあるが、昭和4年が正しい。「昭和十年 独立美術展初入選以降三回入選。」とあるが、初入選は昭和12年であり、没後も入れると入選回数は4回である。「昭和十六年 新東北展「物故作家展」に乗馬が出品されている。」とあるが、昭和三十年が正しい。没年が「不詳」とされているが、昭和16年である。P166に加藤正衛の略歴掲載。また、P178に二宮不二麿、粟野耿介の略歴掲載。粟野耿介の項には「上田耕作先生のお話によると、門下生に中央画壇で活躍した針生とか、在仙画壇の石川俊などがいる」とあるが、上田はそれぞれ針生鎮郎 、石川舜を指して語ったのだろう。また、上田が(粟野は)「昭和十年頃に没したのではないだろうか」と話したとのことだが、これは「昭和六十年頃」の聞き間違いだろうか。P196に「昭和7年(一九三二)「第1回蒼穹会洋画展」六月四日~六日宮城四郎、小高根二郎、安田豊など」という記載あり。他、P208に「第六回東北美術展」(昭和16年)の出品者の一人として宮城輝夫の名前が挙げられている。
B-M4MT-1994-001 自伝 弛みなき道程 吉見庄助 1994 吉見庄助 「第三章 青春時代 希望―栄誉―苦杯」において、「川端画学校時代(第一次東京時代)」の「入隊準備の為の帰郷」のP83に、「白石に於ける、洋画グループそして洋画展の始まり」である「無名会」のメンバーとして宮城四郎の名前が挙げられる。同ページに掲載されている集合写真のキャプションには、「不佐 宮城」とあるが、これは「不在」の誤記であろう。同じく第三章、「帰休除隊・苦難の時代(第二次東京時代)」の「白石の生活」のP125に、「当時中学生として美術活動に熱心だった宮城輝夫君」らに川端画学校で知り合った友人の「Y君」を紹介したことが記されている。「第八章 定年退職」において、「三島学園二十年の私の芸術活動」のP417に、「昭和四十九年五月」に発行された『宮城四郎・宮城輝夫の人と芸術』を吉見が記した経緯が簡潔に記されている。P417からP418にかけて、東京銀座ギャラリーで昭和50年7月に開催された『七六吉見庄助展』の紹介文『吉見庄助展に期待するもの』が転載されている。当時東京都美術館学芸部長だった朝日晃による同文中、P418に「…東北の地で「エスプリ・ヌーボー」の旗揚げに参加している。その周辺には宮城輝夫の名もある。」という記載がある。また、同ページには、(朝日が)吉見庄助のことを「村上善男をとおして知った」という記載もある。
B-M4MT-1996-001 仙台市史 特別編3 美術工芸 仙台市史編さん委員会編 1996 仙台市 3章『近代・現代』の『一.仙台の近代絵画・彫刻』の『5.昭和』を宮城県美術館副館長を務めた西村勇晴が執筆。この文中、P351、P355で宮城四郎、宮城輝夫に触れている。P355において、宮城輝夫の「弟の宮城四郎」と記載されているが、宮城四郎は宮城輝夫の兄である。同ページには、宮城四郎『氷原』、宮城輝夫『踊り子』のカラー図版が小さく掲載されている。巻末『掲載資料一覧』のP574に簡単な図版の説明あり。
B-M4MT-1999-001 ばら藤の仲間たち 人・百年の刻み 白石高等学校創立百周年記念実行委員会編 1999 清水書院 恩師のおかげ―忘れられない母校の校舎―」のP125に、それぞれ、宮城輝夫が師事した美術部顧問で歌人の野地曠二(渡部又三郎)への言及がある。第二節のP77-85の「11 マタカン先生」の章に、野地曠二(渡部又三郎)の紹介文や卒業生の回想、野地の短歌等が掲載されており、遠藤智「A マタカン先生・渡部又三郎(湊又三郎)―現代短歌の灯を白石に―」において、P78とP79-80に、宮城輝夫による恩師の野地曠二(渡部又三郎)についての証言が掲載されている。第一部 の「第二章 先輩と後輩」の「第一節 畏敬の肖像」のP148-150に「彫刻家・小室達―木馬会の友情にこたえる」という文章が掲載されており、宮城四郎・輝夫兄弟の兄である宮城秀夫も所属していた白石中学校第15・16回生の親睦団体「木馬会」と小室のつながりや小室の白石での寮生時代の様子が記されている。第一部の「第三章 人生を刻む」の「第二節 道ひとすじ」の跡部登喜郎「57 シリーズ「夢幻聴」―創作に生命の根源を追う―」のP226に、跡部が高校時代吉見庄助に師事したことや、宮城輝夫、吉見庄助らが所属した美術団体「エスプリ・ヌウボオ」とその後継団体「東北造形美術」に跡部も参加したことが記されている。同じく第三章の「第五節 時の光」のP253に宮城輝夫「68 随想録(アナレクタ)―鎌鼬・水鶏・セルテル水・カンタリス・ぬえ・玉垂れ・プルキリエ氏の現象―」掲載。題名に挙げられた7つの言葉について、それぞれ短い説明が箇条書きにされた、辞典の抜粋のような文章である。輝夫の高校時代の記憶から想起された言葉が選ばれているのかもしれない。後藤彰三「第二部 遥かなる人脈―鎮魂の碑―」の「芸術に魅せられて」のP465に宮城四郎の簡潔なプロフィールが掲載されている。同P465-466に平井弥太郎の、P466に大泉茂基のプロフィールもそれぞれ掲載されている。また、同文章中、「白石文化草創期の木馬会」のP468ー469に小室達のエピソードが記され、P469には宮城四郎・輝夫の兄である宮城秀夫の簡潔なプロフィールが掲載されている。
B-VA-1999-001 宮城県芸術年鑑平成10年度 宮城県環境生活部生活・文化課編 1999 宮城県環境生活部生活・文化課 「特集この人にきく(その二)」というインタビュー企画のうちの一つとして、P12-18に当時宮城県美術館学芸部長の西村勇晴が聞き手を務めたインタビュー「宮城輝夫氏にきく」が掲載されている。写真、映画上映、俳句等、絵画制作に留まらず、戦前からの多岐にわたる表現活動について語っている。また、川口軌外、瀧口修造、吉見庄助、佐藤英哉ら関わってきた表現者たちへの言及も多い。インタビュー中、P12において「六人兄妹だけど、生き残っているのは僕と妹だけになってしまったね。絵を描かないのは一人もいないです。中でも、俺のすぐ上の四郎兄貴が非常に絵が好きでね。俺に「お前絵描きになれ、一生俺が面倒見るから」って。それでね、絵描きになることが決まったわけです。中学一、二年生ぐらいの時かな。」と宮城四郎に言及している。他、P17において、「糸井貫二に「仙台のアンデパンダンに参加してくれないか」っていったら、彼も「まってました」とばかりに大賛成で、参加してくれたんですよ。彼はね、イベンターっていうか、日本の草分けの人じゃないかなぁ。」と語っている。やはり西村勇晴による「各ジャンルの動向」の「洋画」の章では、P50に「宮城輝夫も二年ぶりに晩翠画廊に作品を並べ(二月十七日~三月八日)」と輝夫の個展について言及がある。他、P60に翁ひろみ、P99に佐藤鬼房の名前がある。
E-M4MT-2000-001 「TOHOKU/TOKYO 1925~1945」展図録 2000 読売新聞社、美術館連絡協議会 2000年2月26日から3月26日に板橋区立美術館にて開催された『シリーズ Art in Tokyo No.11 TOHOKU/TOKYO 1925~1945 相克のモダニズム』展図録。P10「図版」の中扉に、清野克巳、清野恒、狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の名前がある。P36に清野恒『大地の樹』の、P54に清野恒『山』の、P62に宮城四郎『風景』の、P67に清野克巳『作品No.1』の、P74に清野克巳『コラージュNo.1』の、P87に狭間二郎『東北の野』の、P99に宮城輝夫『踊り子』の、それぞれカラー図版掲載。尾﨑眞人『「親愛なる椎の若葉よ、君の光の幾部分かを僕に恵め」』中、P109とP110に清野恒について、P110に清野克巳について、それぞれ言及されている。「作家略歴」中、P117に吉見庄助の、P122に清野克巳、清野恒の、P127に狭間二郎の、P128に樋口加六の、P131に宮城四郎、宮城輝夫の、それぞれ略歴を掲載。宮城四郎の略歴に「1926 白石中学校卒業。」とあるが、1927年が正しい。「1927 旧制弘前高校入学」とあるが、1928年が正しい。「1928 病気のため同校中退」とあるが、1929年が正しい。「1930 弘前高等学校理科乙類に入学」とあるが、1927年が正しい。また、前述の「旧制弘前高校入学」と重複した記述である。「1932 東北大学文学部美学研究室聴講生として、阿部次郎のもとで美学を研究。」とあるが、1935年が正しい。「1934 第2回河北美術展(以後第3-5回展出品)」とあるが、「東北美術展」の表記が正しい。1942年に「故宮城四郎画伯遺作展(東北大学美術部〈採光会〉主催)」とあるが、これは「彩光会」の誤記である。宮城輝夫の略歴で1937に「前衛写真協会結成に参加し」、「主な個展、展覧会」にも「1937 新造形美術協会(名古屋)」と記載されているが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、同協会に宮城輝夫が参加したのは「1939年頃」とのことであり、検討が必要である。「作品リスト」中、P134に清野克巳、清野恒の、P135に狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の作品情報が、それぞれ掲載されている。
N-M4MT-2002-001 河北新報平成14年1月25日 2002 河北新報社 佐々木正芳による追悼文「宮城輝夫さんをしのんで」と宮城輝夫作品「エスキース135」(1982年)モノクロ図版掲載。佐々木が輝夫との思い出を語る。「白石の宮城医院に生まれた宮城さんは、兄の四郎さんの影響で画家を志し、」との記述がある。
B-M4MT-2003-001 狹間二郎のデッサンと木版画 菊地義彦編 2003 菊地義彦 P46の木版画のキャプションが「塔のある風景(宮城四郎と共に油彩でも描いている)」となっている。P57『狭間二郎百年の記録 生誕百年記念「デッサン・木版画集」の資料として 菊地義彦』と題した文中、宮城県美術館で1987年に開催された企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』についての言及がある。また、年譜内では、それぞれ以下の記述がある。P65、1937年に「宮城四郎と独立展初入選を記念して、仙台市国分町の工芸社ギャラリーで「二人展」を開く。」と記されている。P66、1941年に開催されていた裸婦写生会「独立講習会」の参加者の一人として宮城輝夫が挙げられている。P79、1987年の宮城県美術館企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』展の説明に「狭間二郎、樋口加六、宮城四郎、三氏の作品各二十点を展示。」の記述あり。
B-M4MT-2005-001 野獣派の画家狹間二郎の画業 菊地義彦編 2005 栗原市教育委員会 菊地義彦「独立美術協会会員狭間二郎の足跡」中、「三、『独立展』初入選と中央画壇への飛躍」のP7、第七回独立展について語る箇所に「この年宮城県からは門脇耕、宮城四郎氏等も入選し」、「四、上京して樋口加六・林武・野口彌太郎に師事」のP7-8に「中央画壇への足がかりをつくった狭間は、共に独立展への入選をはたした宮城四郎と共にで、初入選を記念して仙台市国分町の画廊で「二人展」を開き」、とそれぞれ記載されている。「七、一迫で制作し独立美術協会会員となる」のP14において、昭和16年常盤木学園で行われた第一回「独立講習会」の裸婦写生会参加者の名前が挙げられる中に宮城輝夫の名前がある。他、P17とP19に針生鎮郎への言及がある。P70-91に「狭間二郎年譜(平成十七年六月現在)菊地義彦編」掲載。管理番号B-M4MT-2003-001『狹間二郎のデッサンと木版画』掲載の年譜を更新したものであり、年譜の下に掲載された写真と作品図版も前掲書とは異なっている。本年譜内に、それぞれ前掲書の年譜と同じ、以下の記述がある。P74、1937年に「宮城四郎と独立展初入選を記念して、仙台市国分町の工芸社ギャラリーで「二人展」を開く。」と記されている。P75、1941年に開催されていた裸婦写生会「独立講習会」の参加者の一人として宮城輝夫が挙げられている。P88、1987年の宮城県美術館企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』展の説明に「狭間二郎、樋口加六、宮城四郎、三氏の作品各二十点を展示。」の記述あり。
M-VA-2012-001 S-meme04現代美術と地域 五十嵐太郎発行者、出原日向子、伊藤幹、大内まさ敏、大沼久美、川村亨太、筒井としい、斧澤未知子編集制作 2012 せんだいスクール・オブ・デザイン P72-75に、宮城四郎・輝夫兄弟の活動を中心に据えて、戦前から仙台アンデパンダン展までの宮城県の芸術活動の流れを大まかに追った、鈴木直樹「宮城県現代美術百年史[前編]」掲載。文中、吉見庄助、石川舜、針生鎮郎、加藤正衛、新國誠一、昆野勝、翁ひろみ、糸井貫二、鈴木光一、上條順次郎、鈴木征一、永寿慎一、豊島重之、橋本章らについて触れている。他、P44-47、梅森靖夫「カケスの森のカサ・ブランカ|中本誠司現代美術館が目指しているもの」に中本誠司現代美術館の今野純市館長へのインタビュー掲載。P48-51、森谷千夏「地域におけるギャラリーのあり方|仙台アンデパンダン展を通して」に「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催までの経緯と概要が記載されている。文中、P49の「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催の「背景」の説明において、「ゼロ次元の加藤好弘氏から関本氏に、「仙台で何かやりたい」という提案があったのと同時期に、SARPの青野氏が、ダダカン糸井貫二)氏を絡めた展示を企画したいと考えていた。」、「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」という思いから、加藤氏とダダカン氏が「読売アンデパンダン」などを活動の場としていたことより「二〇一二・仙台アンデパンダン展」という発想に至った。」(「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」の部分の最初の鍵括弧がないのは原文ママ)という文がある。文中に出てくる「関本氏」、「青野氏」はそれぞれ、関本欣哉、青野文昭のこと。P66-71、田多知子「表出する表現|仙台の美術 2001-2012」が、青野文昭、大嶋貴昭、椎名勇仁らに触れている。
E-VA-2017-001 コレクション再発見東北の作家たち|洋画/版画 宮城県美術館(菅野仁美、小檜山祐幹、和田浩一)編 2017 宮城県美術館 2017年4月29日から7月17日に宮城県美術館で開催された同展図録。P4の謝辞に、宮城輝夫の息子であり、工作舎アートディレクターの宮城安総や高山登の名前が見える。P15「第1章 東北のモダニズム」説明文内に狭間二郎、宮城四郎の名前が挙がる。P39に狭間二郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『東北の野』カラー図版掲載。P40に宮城四郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『風景』カラー図版掲載。しかし、作家解説の「1932(昭和7)年に東北大学文学部美学研究室の聴講生となり」という記載は1935(昭和10)年が正しい。P41に宮城輝夫の作家解説(菅野仁美筆)と『踊り子』カラー図版掲載。ただ、作家解説内に「1937年にはシュルレアリスム系の新造形美術協会や前衛写真協会に加わった。」とあるが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、前衛写真協会に宮城輝夫が参加したのは、「1939年頃」とのことで、検証が必要である。P43に村上善男の作家解説(菅野仁美筆)と『Polymerization-N-V(W)の場合、または腔内弾道学』カラー図版掲載。P45「第2章 版画と東北」説明文内に高山登の名前が挙がる。P66に高山登の作家解説(小檜山祐幹筆)と『サンライズサンセットD-1』、『サンライズサンセットD-2』、『サンライズサンセットD-3』カラー図版掲載。P67「第3章 8人の作家」説明文内に宮城輝夫、高山登の名前が挙がる。P74、菅野聖子の作家解説(和田浩一筆)内に「仙台出身でコンクリート・ポエトリーの詩人、新國誠一が主宰するASA(芸術研究協会)にも参加した(1966年退会)」との記述がある。P78,79に高山登の作家解説(和田浩一筆)と『首のない風景』、『のっぺらぼう1』、『のっぺらぼう2』、『のっぺらぼうA』カラー図版掲載。P80,81に宮城輝夫の作家解説(和田浩一筆)と『毛の目の漢たち』、『月の番人』、『陣営(夜ごとの夜シリーズ)』カラー図版掲載。P84-87にそれぞれの作品リスト掲載。