宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

糸井貫二(ダダカン)関連資料2(1973-1995年発行/発表分)

最終更新:2024年2月29日(最新の更新箇所は赤字で記載)
前回更新(2023年8月26日)の更新箇所は青字で記載。
補足:
・自分が現在把握している資料をざっと洗い出したところ、まだまだ多くの資料があるため、今後少しずつ更新して充実させる予定です。
・部屋の中で自分の身体の近くにあって、ある程度記述内容の真偽を確認できた順に資料の情報をUPしていきます。UPする資料情報の順番について、その他に特別な意味はありません。
・本関連資料一覧を作成する上で、上原誠一郎氏提供の労作「ダダカン関連書誌」(管理番号:O-IK-2008-003)が大いに参考になりました。上原さんのご尽力に敬意を表すと共に、感謝を申し上げます。

管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
M-IK-1973-001 終末期の密教 人間の全体的回復と解放の論理 稲垣足穂梅原正紀編著 1973 産報 1968年から1970年までの若者たちの国分寺市での共同生活の顛末を綴った、山尾三省「第4章 部族を志向した聖集団―愛と自由と知恵による結びつき」の「1 部族社会の発見」中、P93(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号52)に、文章の内容と関係のない糸井貫二の写真がイメージ的に掲載されている。糸井は写真や花札等、雑多なものをコラージュ的に縫いつけたノースリーブの上着を着ており、写真には「仙台市郊外で独自の生きざまを示すヒッピーのひとり」とキャプションが付されている。P6に「本文写真提供/羽永・光利・内藤 正敏」と記載されているため、おそらく羽永光利が撮影した写真であると思われる。
B-IK-1977-001 現代の絵画23今日の日本の絵画 針生一郎 1977 平凡社 「評論」の「アンフォルメルとネオ・ダダ」という文章中、P17に「じっさい,50年代末から60年代前半にかけては,福岡に桜井孝身,菊畑茂久馬,オチオサムらの「九州派」,福井に河合勇,橿尾正次らの「北美」,名古屋に加藤好宏らの「ゼロ次元」,岐阜に西尾一三,小本章らの「VAVA」,東京に中沢潮,田中不二,土居樹男,長野祥三の「時間派」,仙台にいた糸井貫一などのグループや個人が,それぞれの角度からアサンブラージュやイヴェントをこころみている。」という文がある。糸井の名前は「貫一」と誤記されている。
B-IK-1977-002 流氓の解放区ヨシダヨシエ評論集 ヨシダ・ヨシエ 1977 現代創美社 『展望昭和四十四年八月号第一二八号』(管理番号:M-IK-1969-003。糸井貫二(ダダカン)関連資料1(1920-1972年発行/発表分)ページ参照)に掲載された評論「芸術展望・69ハプニングの変貌」が「ハプニングの変貌」と改題されて掲載されている。同評論のP22とP25に吉野辰海、P24とP25に糸井貫二への言及がある。
B-IKMT-1979-001 戦後美術盛衰史 針生一郎 1979 東京書籍 「八 ネオ・ダダから「反芸術」へ」において、「タブローの閉塞と苦悩」のP119、1959年の第3回シェル美術賞においては、それまでと「受賞傾向が変って」、「圧倒的に無所属作家に比重が移ってくる」として、受賞者の名前が挙がる中に宮城輝夫の名前がある。同章において、「ダダ的グループの蔟生」のP124、九州派の「英雄たちの大集会」の参加者に「仙台からきた美術家」とあるのは糸井貫二のことを指すものだろうか。ただし、この時糸井はまだ仙台に住んでいない。「九 画商とコレクターの役割」において、「コレクターとパトロンの変貌」のP132、「洋画商連盟展」に1964年までに加わった作家名が列挙される中に、針生鎮郎、宮城輝夫の名前がある。同文章中、P136、コレクターの田口武雄が収集していた作家の名前が挙げられる中に宮城輝夫の名前がある。「十 ポップ・アート前後」において、「読売アンデパンダン展の廃止」のP145に、「六三展の初日には、美術館前の広場で数人の若者がハプニングを演じて警察の取調べをうけ」と記載がある。これはアンビートのメンバーと糸井貫二によるハプニングを指すものであろう。「十二 万博と造反の季節」において、「美術機構への挑戦」のP188に「四月には糸井貫二がお祭り広場を全裸で疾走して逮捕された」と記されている。
M-IK-1981-001 美術手帖1981年11月号 木村要一編集人 1981 美術出版社 「展覧会レポート」の今泉省彦「インポ哲学と「悟り」―「工藤哲巳1977-1981」展」のP170に、以下の文章がある。「思えば六〇年代にアンデパンダン展を根城にして、むちゃくちゃをやった工藤とその同世代は、批評をもってしておのれの表現としたのであった。吉村益信のサダダは言うに及ばず、日本流亡の河原温荒川修作、篠原有司男、桜井孝身、流亡も出来ぬ貧乏の糸井貫二赤瀬川原平、風呂桶に泥棒を入れて出品したのは誰だっけかなあ。」
M-IKMT-1981-001 早稲田文学1981年4月号 早稲田文学編集室 1981 早稲田文学 特集「思潮の三角点◎発禁を考える」に平岡正明「赤い風船事件」掲載。『赤い風船』を発行していた犯罪者同盟の「全員御用事件」の顛末を記す。同文中のP61、『赤い風船あるいは牝狼の夜』(1963年発行)の内容説明に「64糸井貫(写真)」とある(「64」は掲載ページ数を表す。また、「糸井貫とは、ダダ貫といわれた仙台のダダイスト」と解説されている。
B-IK-1982-001 解体劇の幕降りて-60年代前衛美術史「戦後前衛所縁荒事十八番」増補改題 ヨシダ・ヨシエ 1982 造形社 『戦後前衛所縁荒事十八番』(管理番号:B-IK-1971-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料1(1920-1972年発行/発表分)ページ参照)の改訂増刷版。「原爆の図」を背負って……(その二)」のP57に豊島弘尚と昆野勝への、「アンフォルメルの嵐」のP72とP75とP76に昆野勝への、P79-80に豊島弘尚への、「狂乱のネオ・ダダ」のP97とP104、「読売アンパン轟沈す」のP110に吉野辰海への、「岡本太郎の<塔>」のP67、「読売アンパン轟沈す」のP110とP112とP117、「「九州派」の英雄たち」のP150、「モルモット・アンダーグラウンド」のP168、「嗚呼千里丘陵」のP182、「自由梱包、行きつく果ては……」のP187に糸井貫二への、「嗚呼千里丘陵」のP181に井手則雄への、それぞれ言及がある。
M-IKMT-1982-001 別冊美術手帖 1982年秋号美術ガイドみちのくの美 別冊美術手帖編集部編 1982 美術出版社 P62-74に村上善男「プロムナード仙台―街と美術と」掲載。P66-67に「東北大金属研究所のある片平町の北乃画廊は、小田襄の版画作品と、宮城輝夫作品を双柱として、企画個展のローテーションを組んでいる。」という文がある。P67に、「戦後、<エスプリ・ヌウボオ>を興した宮城輝夫が呼びかけ人となった「'64仙台アンデパンダン展」の会場は三越デパートであった。会期中に全裸に近い異相でハプニングを演じた、ダダカンことイトイカンジの行為にたじろいだ市内各デパートの催事場は、あやしき現代美術をしめだす。以降、読売会館七階に新設された市民ギャラリーが、公認された現代美術の展示場となる(イトイカンジ今いずこ!)。」という文がある。他、P67、P68で佐々木正芳に、P68で中本誠司に、それぞれ触れている。他、P16-28、「プロムナード盛岡―街と美術と」の執筆も村上善男が担当している。
B-IK-1985-001 通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい 秋山祐徳太子 1985< 土曜美術社 「第二章通俗的行動学中年戦記」のP122-124、「「反博」金メダリスト」は糸井貫二について書かれたエッセイ。糸井のメールアートや大阪万博での全裸疾走について触れている。文中、上條順次郎の苗字が「上条」と誤記されている。他、P250、P338に針生一郎の名前が現れる。
B-IKMT-1985-001 仙台起繪圖 村上善男 1985 用美社 エッセイ集。「美術手帖」1982年12月号から1983年8月号に連載された「北奥異聞 破線に結ぶ」が収録されている。この中のP51-55「セキブツ」中、P55で加藤正衛に言及している。また、P56-60「正衛」という加藤正衛について書かれたエッセイ中、仙台アンデパンダン展の合評会で「一点ずつ作品評を始めた」人物についての思い出を記す中、P57に「火照りがおさまってから、隣席の、展覧会のオルガナイザー宮城輝夫氏に、人物が何者であるかと尋ねた。「フワケズのカトウマサエさん」ということであった。」という文がある。同文中、P58では佐々木正芳の名前も現れる。P213-227「仙台極私地図」は「別冊美術手帖 1982年秋号美術ガイドみちのくの美」(管理番号:M-IKMT-1982-001)に掲載された「プロムナード仙台―街と美術と」を改題したものである。文中に、宮城輝夫、佐々木正芳、イトイカンジの名前が現れる。詳細は本ページ、管理番号M-IKMT-1982-001参照のこと。
B-IK-1985-002 いまやアクションあるのみ!<読売アンデパンダン>という現象 赤瀬川原平 1985 筑摩書房 P121、「第四章無償のスペクタクル」扉に電球を体につけた升沢金平のモノクロ写真が使われている。P147には赤瀬川による升沢とその作品を描いたイラストが掲載されている。P122、P134、P145、P146に升沢金平の名前が、P142、P143に吉野辰海の名前が、それぞれ現れる。「第五章坩堝が割れる」のP160-161に以下の文章がある。「いつも見るのは、糸井貫二の作品である。どこかの村外れの廃屋から外してきたような薄汚れた板で、祠のような小屋のようなものがしつらえてある。中をのぞくと薄暗い中に週刊誌からち切ったような、粗末な印刷のカラーのヌード写真。ふっと空気に触れて皮膚がただれるような、衛生博覧会的な雰囲気。そんな作品が毎年シリーズのように出品されていて、はじめは名前もわからなかった。それが猥褻なのか神聖なのか、芸術であるのかどうかもわからず、読売アンデパンダンの一つの代表的な印象となっている。」。同章のP161には、松沢宥の「プサイの函」シリーズが糸井の作品と「同じ印象のもの」とした上で、「その函を構成する材料が糸井貫二と相似する薄汚れた古び方」と記している箇所がある。P165に第12回読売アンデパンダン展に糸井が出品した「阿字観」を描いたものと思われる、赤瀬川のイラストが掲載されている。イラストの横には、「糸井貫二の作品の記憶 田舎の家の古材のようなものを使い、中に週刊誌のヌードのようなものが祀ってある」というキャプションが付いている。なお、このイラストは裏表紙にも使われている。同章、P174において、第14回読売アンデパンダン展の撤去作品を挙げていく中に、「猥褻関係では糸井貫二、ダダ貫である。覗き箱の中に五千円の株券二十枚を並べたその中に、特権的女体の「無修整」写真。」という文章がある。「終章美術館のカケラ」のP208、国立近代美術館で開催された「一九六〇年代-現代美術の転換期」展について「物足りない」気持ちをあらわす中に、「糸井貫二のモノ、サイタ亭のモノ、広川晴史のモノがない。」という文がある。「●読売新聞社主催「読売アンデパンダン展」の出品者名抜萃」のP219、第二回に井手則雄の、P219、第三回とP221、第十一回とP222、第十二回と第十三回に糸井貫二の、P221、第十回にカンイトイの、P223、第十五回にイトイカンの、P222、第十三回と第十四回、P223、第十五回に吉野辰海の、P222、第十四回に村上善男と升沢金平の、名前がそれぞれ掲載されている。
M-IK-1985-001 美術手帖1985年10月号 1985 美術出版社 「[特集]パフォーマンス」の「「行為の軌跡」パフォーマンスの歴史」の高島直之「行為の軌跡[日本]」のP73、「九州派」の章において、1962年に百道海水浴場で開催された「英雄たちの大集会」の参加者の名前が挙げられる中に、糸井貫二の名前がある。
B-VA-1986-001 河北美術展50回記念宮城県美術館開館5周年記念河北美術展半世紀の歩み 宮城県美術館河北新報社 1986 河北新報社 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1986-001参照。
M-IK-1986-001 早稲田文学1986年12月号 早稲田文学編集室 1986 早稲田文学 「鼎談あぶない同時代'60赤瀬川源平・上野昂志・四方田犬彦」のP18において、読売アンデパンダン展を観た印象を語る中で、赤瀬川源平が以下のように述べている。「変なものがあるって。僕なんかもわりと遅い方だけど、そのことを別にしても、本当に変なものがあるわけ。ちょっとアブナイやつね(笑)。例えば糸井貫二なんかは、戦前もダダをやってたわけだけれど、かなり変なものでしたね。僕らのガヤガヤやっている連中は、一応はそのころの美術の潮流というか、ある作法を踏んでるみたいな所があるわけ。だけど、糸井貫二なんかの作品はそういう潮流ぬきでとても生々しいのよね。生活からいきなり踏み込んできたというか。」糸井が「戦前もダダをやってた」というのは赤瀬川が陀田勘助と糸井を混同したものだろうか。
M-IK-1986-002 美術手帖1986年5月号 宮澤壮佳編集人 1986 美術出版社 「[特集]美術の土方巽」の市川雅「肉体の物質性、物質の肉体性」のP28、1962年の第14回読売アンデパンダン展の状況を説明する箇所において、撤去された作品を挙げていく中に「糸井貫二の性行為を描いた作品」という記述がある。
E-IK-1990-001 中島由夫1940-1990(普及版) 大橋洋子編 1990 海文堂ギャラリー 神戸市の海文堂ギャラリーで開催された中島由夫の展覧会に併せて刊行された画集の普及版。「年譜」のP62に「1956~1957年 ダダイズムの祭典に参加、糸井貫二氏を知る」と記載されている。P66の「主要参考文献」に「「DADA プラス ZEN」田代みのる 糸井貫二 中島由夫 1957年」と記載されている。
B-VA-1991-001 宮城県芸術年鑑平成2年度 宮城県生活福祉部文化振興室編 1991 宮城県生活福祉部文化振興室 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1991-001参照。
M-IK-1992-001 美術手帖1992年5月号 1992 美術出版社 「つらぬかれた<昭和>の個性[特集]岡本太郎の世界」の「Part3時代の証言」の今泉省彦「岡本太郎と戦後美術」のP94、「万博・七〇年代」の章に「京大ではゼロ次元を中心にした反万博の騒ぎがあったし、糸井貫二が万博会場内を全裸で走り回ったりもした。」という文がある。
B-IK-1993-001 日本アンデパンダン展全記録1949-1963 瀬木慎一監修、総合美術研究所編 1993 総美社 日本アンデパンダン展目録・関連記事」に以下の出展記録がある。「第2回展」の「彫刻」のP41に井手則雄「報道の自由…石膏」、「第3回展」の「彫刻」のP64に糸井貫二「たまご」、「第9回展」の「絵画の部」の「〔第17室〕」のP170に針生鎮郎「番地A」と「番地B」、「第10回展」の「絵画の部」のP188にカンイトイ「無動…洋」と「無位…洋」(「洋」は洋画を表す)、「版画の部」のP197にカンイトイ「菩薩」と「ぶどうと子供」と「芽」、「彫刻の部」のP198にカン イトイ 「放射能」と「宇宙人」、「第11回展」の「絵画の部」の「〔第4室〕」のP205に糸井貫二「非常…洋」、「版画の部(第23・24室)」のP211に糸井貫二「パートタイマーのうた」、「彫刻の部(第24室)」のP212に糸井貫二「鳩飼いし頃」、「第12回展」の「絵画の部」のP218に糸井貫二「涅槃達陀」と「障子」と「えだ」、「彫刻の部」のP226に糸井貫二「阿字観」と「「行動だ」」と「間」、「第13回展」の「〔絵画〕」のP238に糸井貫二「ダダッ子貫ちゃん」と「作品-3」」、「〔彫刻〕」のP240に糸井貫二「個展」、「第14回展」の「〔絵画〕」のP247に村上善男「価標」、「第15回展」の「〔絵画1〕(壁面使用の造形作品を含む)」のP263にイトイカン「ダダカンの鞄」、「〔彫刻〕(造形作品を含む)」P268に「〔彫刻〕(造形作品を含む)」にイトイ・カン「43歳になった一匹狼」。「第12回展記事(昭和35年)」のP227に掲載された読売新聞昭和35年3月1日夕刊記事「読売アンデパンダン展美の興奮に包まれてひらく」に「絵画、彫刻など出品は約千点、無名作家の登竜門とあって、いずれも大胆な構成と色彩が陳列の壁面から飛び出しそう。なかでも戸板でつくった小屋の奥にヌード写真をはりつけた"阿字歓"セメントだらけのリンゴ箱に七色のテープをめぐらしたアンフォルメル派の活躍に観客も「若い世代の考え方がよくわかる」と感心の体。」と、糸井貫二出品作の「阿字観」についての言及がある。「出品作家INDEX」のP301に「井手則雄…②」、「イトイカン…⑩⑮」、「糸井貫二…③⑪⑫⑬」、P323に「針生鎮郎…⑨」、P328に「村上善男…⑭」とそれぞれ記載あり。
B-IK-1992-001 スピリットの森から 内なる変容とエコロジー おおえまさのり 1992 柏樹社 「第三章 場の精神」のP121-130に「iii-ダダイスト・イトイカンジ」という文章が掲載されている。1970年に上京した糸井貫二をおおえが「東京案内」した思い出や、それ以来の糸井との手紙での交流、1988年におおえが糸井宅を訪問して再会して糸井から聞いた様々なエピソードが綴られている。P123に、万博会場での糸井の全裸走について記載されているが、太陽の塔に籠城した男と糸井が「共に、密かに万博会場に忍び込み」、糸井が「走り回った」間に「めがね男は太陽の塔によじ登って籠城」と幾つかの事実誤認がある。
M-IK-1993-001 出版ニュース1993年12月下旬号 出版ニュース編集部編 1993 出版ニュース P3、羽永光利「写真集から 柿田清英著『崩れゆく記憶-端島炭鉱閉山18年目の記憶』」において、端島炭鉱について語る中で糸井貫二に触れた、以下の文章がある。「たまたま私は、その地底に奴隷のごとく連がれた生き証言を聴いている。糸井貫二ダダカン、と親しまれて、今もご存命かどうか不明だが仙台市太子堂に孤住していた。ご記憶の良いひとなら、大阪万博開幕の折り、全裸で万博反対を叫び太陽の下を走り廻った話題の御仁である。ニヒリストを自称、路上の草木を摘んで食し、瞑想終始、陽の良い日は「殺すな」と大書した褌(ふんどし)ひとつで仙台市中を闊歩する。そのひとが戦時中、思想犯としてこの「軍艦島」に拉致され肉体の芯まで絞り抜かれた。「地下の、千丈も二千丈も暗がりと息も出来ぬ奥深い処に落ちてのう、いやホンマに落ちて行くような奈落でのう」カンテラの灯も酸素が欠乏して消え、暗闇のなかで手探りで回し飲みした椀の塩水。重労働のあとのこれは天上の馳走であった。と言う。以来、この老夫には草木が常食となった。」しかし、「箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝」(管理番号:B-VA-2007-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料3(1996-2021年発行/発表分)ページ参照)のP324では、糸井は炭鉱徴用令に「自分から志願したんですよ」と語っており、「思想犯としてこの「軍艦島」に拉致され」という記述は誤りである。また、糸井が炭鉱労働に従事したのは、端島炭鉱ではなく、筑豊炭鉱である。他にも誇張めいた表現が多く、鍵括弧内の言葉も糸井の普段の口調とは異なっており違和感がある。

2023年2月15日公開