宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

糸井貫二(ダダカン)関連資料1(1920-1972年発行/発表分)

最終更新:2024年2月29日(最新の更新箇所は赤字で記載)
前回更新(2023年8月26日)の更新箇所は青字で記載。
補足:
・自分が現在把握している資料をざっと洗い出したところ、まだまだ多くの資料があるため、今後少しずつ更新して充実させる予定です。
・部屋の中で自分の身体の近くにあって、ある程度記述内容の真偽を確認できた順に資料の情報をUPしていきます。UPする資料情報の順番について、その他に特別な意味はありません。
・本関連資料一覧を作成する上で、上原誠一郎氏提供の労作「ダダカン関連書誌」(管理番号:O-IK-2008-003)が大いに参考になりました。上原さんのご尽力に敬意を表すと共に、感謝を申し上げます。

管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
M-IK-1944-001 體育日本昭和十九年二月號第二十二巻第二號 1944 大日本體育會 P60(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号30)の、「國民體育上級指導者養成講習會」の昭和12年12月22日の検定試験合格者の「上級合格者」一覧に「糸井貫二 二四 會社員」の記載がある(「二四」は年齢)。
O-IK-1946-001 全日本體操競技選手權大會プログラム 1946 日本體操協會 昭和21年11月1日~3日に大阪YMCA・大阪朝日新聞社大講堂で開催された「全日本體操競技選手權大會」のプログラム。公益財団法人日本スポーツ協会資料室が保管する「第1回国民体育大会競技別プログラム(陸上除く)」というファイルに綴じられている。「昭和二十一年度全日本一般男子體操競技選手權出場者氏名」の一覧において24番目に「糸井貫二」「大阪YMCA」という表記がある。
F-IK-1957-001 糸井貫二個展案内ハガキ 1957 表面下に当時の糸井の東京の住所と「糸井貫二」の名前が、裏面に「糸井貫二個展 一九五七年十二月二十四日-二十八日午前十時-午后七時 村松画廊 銀座七ノ一(75)〇八五七(山葉ホール並び)」という文字が、それぞれ印刷されている。ブログ主の鈴木所有の物は、糸井の家に鈴木が遊びに行く日時を調整した際、糸井がハガキを再利用してメッセージを書いて郵送してきたもの。裏面には赤いペーパーペニスが貼られている。
M-IK-1957-001 教育美術1957年12月号第18巻第13号 佐武林蔵編集兼発行人 1957 財団法人教育美術振興会 P18(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号12)の展覧会案内ページにおいて、「都内美術展」の「三省堂画廊」に「糸井貫二個展」が12月24日-28日に開催されると記載あり。〇しかし、会場は村松画廊の誤りである。
B-IK-1959-001 日本美術年鑑昭和33年版 東京国立文化財研究所美術部(美術研究所)編 1959 東京国立文化財研究所 「美術展覧会」の「一二月」のP161(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号117)に「糸井貫二個展 24-28 村松」と記載がある。
N-IK-1959-001 河北新報昭和34年8月11日 1959 河北新報社 6面に「五つの坊やの個展仙台出身のイトイ・ヨシローちゃんユーモラスで鋭いタッチ」の表題で、銀座の東京電力サービスセンターで開催された「イトイ父子コラージュ展」の紹介記事が掲載されている。美術評論家の植村鷹千代が来場し、「なかなかおもしろい」とコメントしたこと等が記載されている。展示作品を背後に立つ「ヨシローちゃん」と1点の作品の、計2点の写真が掲載されている。
M-IK-1960-001 三彩 1960年4月号第一二五号 藤本韶三編集兼発行人 1960 三彩社 江原順の評論「ターニングポイントにたつアンデパンダン展」のP60に「ふたつのアンデパンダンを通じて、奇妙な花形役者にのしあがったのは、ことに読売アンデパンダン展に多く現われた「ガラクタ派」であった。上村宏幸、金子鶴三、三木富雄、篠原有司男、糸井貫二、石橋泰幸などと、名前を思いうかべていくかたわらから、わたしのなかにひとつの光景が浮かびあがってくる。」という文がある。また、同評論のP61に井出則雄への言及がある。
M-IK-1960-002 藝術新潮 1960年4月号第11巻第4号 佐藤義夫編集兼発行者 1960 新潮社 アンデパンダン展にみる<アンチ・絵画>」のP119に、糸井貫二が第12回アンデパンダン展に出展した作品「阿字観」のモノクロ写真が「覗き見の心理をこころみる 糸井貫二」というキャプションと共に掲載されている。また、同記事中の江原順による評論「先取される廃墟」において、糸井貫二の出展作品が他の出展作家たちの作品と共に批判的な文脈で取り上げられている。
N-IK-1960-001 読売新聞昭和35年3月1日夕刊 1960 読売新聞社 7面に「読売アンデパンダン展美の興奮に包まれてひらく」」という記事が掲載されている。記事中に糸井貫二の名前はないが、糸井の出展作品「阿字歓」に触れた以下の記述がある。「絵画、彫刻など出品は約千点、無名作家の登竜門とあって、いずれも大胆な構成と色彩が陳列の壁面から飛び出しそう。なかでも戸板でつくった小屋の奥にヌード写真をはりつけた"阿字歓"セメントだらけのリンゴ箱に七色のテープをめぐらしたアンフォルメル派の活躍に観客も「若い世代の考え方がよくわかる」と感心の体。」
B-IK-1961-001 日本美術年鑑昭和35年 東京国立文化財研究所美術部(美術研究所)編 1961 東京国立文化財研究所 「美術展覧会」の「8月」のP107(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号87)に「イトイ父子コラージュ展 7-8 東京電気銀座サービスセンター」と記載がある。
B-IK-1963-001 赤い風船あるいは牝狼の夜 宮原安春 1963 赤い風船 P64(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号36)に、裸でポーズを取る糸井貫二の写ったモノクロ写真がキャプション無しで掲載されている。目次の本ページには、ただ、「糸井貫」とだけ表記されている。黒ダライ児『肉体のアナーキズム』P419によると、この写真は1960年12月に大分県の中津の「アリカ写真館」でプロの写真家に撮影させたポートレートであるとのこと。
M-IK-1963-001 三彩 1963年7月号No.164 藤本韶三編 1963 三彩社 前年に開催された九州派主宰のイベント「英雄たちの大集会」を回想したヨシダヨシエの「英雄いずこにおわすニッポン西域の叛徒たち」という文中、P61に糸井貫二のパフォーマンスについて以下の記載がある。「〈儀式〉のうちではナンセンスによって、完璧な荘重な式を執行したのは、小幡英資と大分から参加したイトイ・カンであった。(改行)イトイはガムを噛みながら、おごそかにボストン・バッグのなかから無意味で仰々しい物体をつぎつぎとりだしてみせ、小幡はニワトリを刺殺して、その全身を真っ黒に塗るといった行為を、緻密な計画性と長時間の忍耐とで執行したのである。」
M-IK-1964-001 美術手帖1964年6月号 美術手帖編集部 1964 美術出版社 針生一郎の文章「アンデパンダン展についてこう考える―アンケートから―」のP75に、美術手帖1964年4月号で針生が行った誌上アンケートに糸井貫二が、(アンデパンダン展の)「役わりは終わった。脱皮して生き残った者がすでに新生面を現わしている」と仙台から回答を寄せ、「それにかわる隔年制国際前衛展の創設を提唱し」たと書かれている。「読者から」欄に「マイ・ホーム・タウン(アンパンの出品拒否問題に思う) 東京都 元山登夫」という投稿掲載。読売アンデパンダン展における元山の作品撤去や運営委員の姿勢についての批判的な意見が語られる中、P141に「アンデパンダンには三橋美智也ダダカンも堕胎の室も自由であるし、それが芸術の自主性を尊重する場に通じるのであって、それ故に尊いのである。」という文がある。
O-VA-1964-001 仙台アンデパンダン展評 1964 1964年9月に開催された仙台アンデパンダン展の批評全11ページ。ブログ主が所持しているのは、青野文昭氏より受領したコピー。1964年に印刷・配布されたものか。加藤正衛による同展の総評と各作品評「新しい次元を示唆してはいるが」(P1-8)と長谷部昭義による総評「仙台アンデパンダン「これ限りにあらず」(P9-11。実際の文では、鍵括弧の上下が反転している)を掲載。加藤の評には、以下の文がある。「石川舜「作品A・B」精細優美なローマ法王のガウンを見るような芳醇な魅力,ロマネスクな感動の象徴.作者の一品芸術想像の気魄と情熱が感じられる。自己完成への真摯な努力作として,充実した秀作。(鉛筆素描)」、「宮城輝夫「好色の鳥」樹間に生を楽しむ小鳥の世界.錯雑した現代社会を逆説的に語ろうとする童画的比喩.タブローを思わしめる熟達した技法.画格の高い逸品であるが,創作意欲の稀弱が問題でなかろうか。飛躍を期待したい感じがする(油)」、「糸井貫二「ゼロの男」白い鉄兜にヌード写真とハーレをコラージュした際どい表現.ギリギリのポイントから,現代文化の出直しを宣言する体当りの出品。異常と正常を意味する無数の写真や版画や言葉や落書をアルバムにして曝け出し,文化とアンデパンダンを意識床底から洗い出せと,嘲笑の中で訴える切実な表現.それを更に徹底させるために,赤いパンツに上半身繃帯巻の姿で兜の傍に仰臥し或は会場をねり歩くハプニングシヨウを繰りひろげる異常な情熱。だがこれは読売アンパンやパリで行われたアヴアンギヤルトのハプニングに発想した再演と見る。既成の観念美学に対抗する運動として,此の会場を利用するのが目的らしい。デパートでは無理.驚いたのは老人と婦人客,中年層と青年はこれを無視して冷静。喜んだのは少年と与太者だけ。作者の求めている真の意味は伝えられなかつたのではあるまいか。ただ威名を轟かしたという憾がある。(ショー演出)」。他、加藤は新国喜代、針生鎮郎、村上善男、橋本章、加藤徳子、佐々木正芳、昆野勝、鈴木光一、翁観二らの作品評も書いている。
M-VA-1965-001 美術ジャーナル通巻第五十二号1965 宇治美枝編集発行人 1965 美術ジャーナル社 P16-35、「特集22座談会現代日本の美術の底流■戦後美術「被害者の美学」からの脱出 小久保彰・小本章・昆野勝・司会・針生一郎」において、昆野が宮城輝夫や、宮城・昆野らが所属した芸術団体「エスプリ・ヌーボー」に言及している。P22-23に昆野の作品のモノクロ図版が2点掲載されており、P38-41に宮城輝夫による仙台アンデパンダン展のレポート「仙台アンデパンダン診察記」が掲載されている。P38にイトイ・カンジ「ゼロの男」と石川舜「作品」の、P41に翁観二「作品一」と佐々木正芳「ヌケヌケとヌクヌク」の、それぞれモノクロ図版が掲載されている。また、P41で以下のように記している。「残る一つは「ゼロの男」と題した交通巡査などが被る白ヘルメットにセクシュアルなカラーのフォト・コラージュをこらした一種のオブジェと,そのオブジェが置いてある床の上に作家の本人が頭部を純白の繃帯でグルグル巻きにし眼のさめるような深紅の褌姿で大の字にひっくり返って見せたイトイ・カンジである。思いなしか白ヘルメットはペニスを象徴していたようである。<入口シリーズ>は「作品ではない,ゴミ」だという理由から,<ゼロの男>は「客に不快の念を抱かせる」という理由から共にデパート側からの強い申し入れがあって完全な状態での展示が許されなかった。セックスを通して人間の不在を証明しようとするイトイ・カンジは手を変え品を変えして,その主張をゆるめようとはしなかったようである。」他、同ページには豊島弘尚、昆野勝、新國喜代子、針生鎮郎、村上善男、佐々木正芳、石川舜らへの言及がある。「スポット」欄の「長岡現代美術館賞の決定まで」のP56、第一回長岡現代美術館賞展の出品者の名前が挙げられる中に宮城輝夫の名前がある。
M-IK-1967-001 美術手帖1967年11月号 美術手帖編集部 1967 美術出版社 「特集芸術の地下エネルギー=日本のアンダーグラウンド」の刀根康尚「芸術の地殻変動-EXPOからヒッピーまで」のP106-107に加藤好弘の発言が引用されている。同発言中、以下のように糸井貫二に言及した箇所がある。「僕らの仲間で糸井さんや松江さんという人たちは気違い扱いされて芸術家じゃないみたいにいわれていますけれど、そうじゃない、物事や自分に素朴なんですよ。」なお、当該の発言がいつどこでされたものであるかは不明。また、同特集の「附図=アンダーグラウンド・アート・ダイアグラム(編集部+刀根康尚)」中、「九州派英雄大集会」のグループに「イトイ・カンジ」の名前がある。
B-IK-1968-001 前衛の道 篠原有司男 1968 美術出版社 P25(コマ番号17)、P56とP57に挟まれたページ(コマ番号34)、P60(コマ番号40)、P79(コマ番号51)、P116(コマ番号70)、P141(コマ番号83)、P201(コマ番号116)に吉野辰海、P94(コマ番号59)、P135(コマ番号80)、P176-177(コマ番号103)に升沢金平の名前が現れる。P95(コマ番号59)、第13回読売アンデパンダン展についての記述の中に「だがアンパンとともに育って来たぼくや糸井貫二工藤哲巳は既成画壇に反逆する唯一のトリデとして、この無審査の展覧会を愛していた。」という文がある。
M-IK-1968-001 オール讀物昭和43年5月号 杉村友一編 1968 文藝春秋 「ご存じですか?アングラ篇」の「美術」でゼロ次元、クロハタと共に糸井が紹介されている。以下、P107の記載。「が、日本ハプニングの元祖といわれるイトイ・カンジともなると、生活それ自体からしてハプニング。それだけに、ゼロ次元あたりからは、生き神さまとあがめられている存在だ。仙台に住んでいて、ときとして不意に上京。クロハタやゼロ次元の儀式にお出ましになる。が、マス・コミに乗ることが極度に嫌いで、某誌のごときは"神さま"の写真に十万円の懸賞金を約束しているとか。」
M-IK-1968-002 映画評論昭和43年4月号第25巻第4号 映画評論編集部編 1968 映画出版社 羽永光利「今月の訪問ゼロ次元狂気を売るハプニング屋」P62(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号32)に以下の記述がある。昭和39年のゼロ次元の活動を列挙する中、「十月 名古屋東山墓地に、仙台のイヴェンター、イトイカンジの参加により「狂気芸術見本市」を十日連夜、儀式をつづける」 。また、同「狂気芸術見本市」の「大人の電車ゴッコ集団遊び行進」の参加者たちの描写に「狂芸術の草ワケ、仙台から来た、ダダカンことイトイカンジの滑車式チンボコつり車具」と記載あり。
M-IK-1968-003 映画評論昭和43年5月号第25巻第5号 映画評論編集部編 1968 映画出版社 羽永光利「今月の訪問ゼロ次元とハプニング戦術」P76(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号39)において、「メーデー事件」の様子が語られる中に糸井の名前が以下のように現れる。「昨四十一年五月一日、メーデー会場での糸井貫之〇次元、クロハタなどの集団による、〇次元のモーニング正装男女のチンチン電車ゴッコ、ダダカンの赤布のおどり、クロハタの火祭りと、デモに参加して当局と主催の日本共産党の双方からけむたがられ」。糸井の名前は、「糸井貫之」と誤記されている。
M-IKMT-1968-001 美術手帖1968年4月号 美術手帖編集部 1968 美術出版社 「特集日本の前衛」において、以下の記述と写真掲載がある。P82、中扉のコラージュに、モヒカン頭の糸井貫二の写真が使われている。「日本列島=前衛グループ・ガイドマップ」のP85、「仙台」に「エスプリ・ヌーボー<宮城輝夫。昆野勝ら>1954~56」、「N38°/40°<村上善男、高見泰茂、藤形一男ら>1963~」とそれぞれ記載がある。針生一郎「「地方」コンプレックスを壊せ」のP94に宮城輝夫『アマゾーヌ』のモノクロ図版が掲載されている。石子順造アウトサイダーとしての個人 孤高に生きる芸術家」の「芸術運動家の孤独」「Ⅰ・啓蒙派」のP96に、宮城輝夫に対する批評があり、昆野勝の言葉を引用している。同文章のP98-99、「観念と生活の裏で・・・・・・」「Ⅳ・超越派」において、「松沢宥の対局」として糸井貫二への言及がある。糸井の名前は、「糸井寛二」と誤記されている。ヨシダ・ヨシエ「流動化する地方の前衛 読売アンデパンダン展とその後」のP102-104に宮城輝夫及び仙台アンデパンダン展への言及があり、P103には佐藤英哉、昆野勝の名前が現れる。また、「画廊・美術館・デパート 展覧会案内」において、P218、「環境ゲーム審議会展」の出展者に村上善男、針生鎮郎、豊島弘尚らの名前がある。
M-IK-1969-001 デザイン批評・季刊・第10号 粟津潔責任編集、浜田八朗編集人 1969 風土社 加藤好弘「エロスの万博破壊―万博破壊共闘全裸儀式不当逮捕の実体」末尾の「●万博破壊共闘派69年活動記録」の「七月」のP121に以下の記述あり。「共闘派仙台イトイ・カン、抗議狂火水儀式。」
M-IK-1969-002 映画評論昭和44年8月号第26巻第8号 映画評論編集部編 1969 映画出版社 加藤好弘「万博破壊活動第三宣言」のP78、1969年5月に開催された万博破壊九州大会に桜井孝身が参加するまでの動向を記した後に、「日本美術界の異端孤絶の二大狂王と言われるイトイカンジ、桜井狂人の傷まみれの足跡が永久革命時代より逆に彼らに足調を合流さしめはじめてドロップアウトのぬくもりを我らの俗流がヒッパガシはじめたのだ。すでにこの狂人達がアタリマエの通俗に帰国しているほどのスピードは恐ろしく早すぎるのだ。」という文章がある。
M-IK-1969-003 展望昭和四十四年八月号第一二八号 中島岑夫編集者 1969 筑摩書房 ヨシダ・ヨシエ「芸術展望・69ハプニングの変貌」のP97に「六〇年代に黛敏郎東松照明寺山修司土方巽金森馨三保敬太郎ら、ジャンルを越えて第一生命ホールで発表した"650エクスピリエンスの会"や、あるいはビートの集団"ビザール"の会が銀座山葉ホールに集まり、前記篠原や吉村がアクション・アートとでもいうべきものを披露したり、あるいはダダイスト糸井貫二が、東京、東北、関西、九州と流浪しながら破壊的リチュアルをやってまわったりしたのは、いまおもうとハプニングの前駆症状であった。」という文がある。また、P98にも、九州派の大会に糸井貫二が合流し、「九州の荘重なリチュアルに対して、冷静緻密なハプニングを対立させたりした。」という記述がある。
M-IK-1970-001 美術手帖1970年12月号特集行為する芸術家たち 美術手帖編集部 1970 美術出版社 「特集行為する芸術家たち」中に、それぞれ以下の文章・図版が掲載されている。P40に布団の上に赤褌姿で座り黙想する糸井貫二のカラー写真。P41に裸で鍋を被り屋外を歩く糸井のモノクロ写真とヨシダ・ヨシエによる簡潔な糸井の解説文。P48、ヨシダ・ヨシエによる中島由夫の解説文の中に糸井の名前が現れる。ヨシダ・ヨシエ「単独行為者の超劇場」において、「底知れぬ狂気の営為-そのクロニクル」の、「一九六三年三月」のP49、第15回読売アンデパンダン展について記す中で、「館入口階段では<アンビート>(中島由夫・加賀美政之・藤村忠義ら)と糸井貫二らが半裸で狂いうごき、公園派出所に連行された」という記述が、P55、一九六八年十二月一日に豊島重之についての記述が、それぞれある。同文章中、「蠢動する共同体への予兆―<美術>を通り過ぎて」のP58-61の各ページとP63にそれぞれ糸井への言及がある。P74-77に豊島重之による糸井についての論評「糸井貫二-直会肉談-このマッド・ストック」掲載。文章中に、糸井のそれまでのハプニングが列挙されているが、『糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付)』(管理番号:O-VA-2008-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料3(1996-2021年発行/発表分)ページ参照)によると、「41・8大徳寺参禅管長とのホモ問答(烏丸通り)」と記載されているような行為はなかったとのこと。また、同資料によると、「45・4手配犯人風全裸逃げ(大分県中津駅前)」についても「全裸逃げ」は誤りであるとのことである。
M-IK-1970-002 プレイボーイ第5巻第42号No.39/OCT.6 五十嵐洋編集長兼発行人 1970 集英社 「ドヒャーッと遊んじゃった万博人間模様」の「"ハンパク"(反博)で男をあげたアウトサイダー」に「知る人ぞ知る日本ヒッピーの教祖的存在の糸井貫二(49)という人。通称"ダダカン"。」として糸井が紹介されている。万博会場内の全裸疾走とオリンピック前の全裸銀座走について記載されている。万博会場内を糸井が走った距離は「20メートルほど」と記載されている。「群衆が拍手したよ。万博は反対じゃないよ。永久にやりゃいいんだ。そしたらオレも一生ハプニングができる」という糸井の発言が紹介されているが、内容・口調から判断して、糸井が実際にこのように発言したとは考えにくい。
B-IK-1971-001 長髪世代の証言!ウルトラ・トリップ 末永蒼生、中村政治編 1971 大陸書房 「4.フリークたちの話」にそれぞれ以下の記載がある。水町幸郎によるイラスト「全国ウルトラ・トリップ地図」のP101(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号54)において、日本地図の仙台に、中折れ帽を被ってつぎはぎのあるスーツを纏った糸井貫二のイラストが描かれており、「セビロやネクタイにお金をぬいつけていたらそれがダダカンさんです」、「ごぞんじダダカンこと糸井寛二おじさん野草をたべて月5000円で生活してる仙人みたいな人、去年万博会場をオールヌードで走ったよ。」と吹き出しが付いている。糸井の名前は「寛二」と誤記されている。P128(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号68)の「聖者・桜井孝身」という文章に「前衛美術"九州派"の中心人物、桜井孝身は芸術家というよりは、ヒッピー・聖者という方がピッタリである。なにかとてつもない能力を秘める人物である。北の糸井貫二、南の桜井孝身である。二人とも六九年の儀式派による反博キャンペーンには戦線にたったが、戦後、芸術事件の教祖の双璧である。」と記載されている。P129(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号68)に「仙人ヒッピー ・糸井貫二」と題された、糸井の紹介文が、「ダダ・カンの儀式」とキャプションを付された糸井のパフォーマンス写真と共に掲載されている。この写真は、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』P427に掲載された写真と同じであるが、上半身だけがトリミングされている。前掲書によると、この糸井の写真は、仙台のコニシリビングで開催された「《触感覚映像大会》におけるパフォーマンス」とのことである。P130(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号69)に「宮城県の若いフリーク・斎藤義明のメイル・ハプニング」というキャプションを付されたメールアートのモノクロ図版が掲載されている。
B-IK-1971-002 戦後前衛所縁荒事十八番 ヨシダ・ヨシエ 1972 ニトリア書房 ヨシダ・ヨシエが美術手帖1971年1月号から1972年2月号に連載した「戦後前衛所縁の荒事十八番」をまとめた書籍。「「原爆の図」を背負って」……その二」のP43に豊島弘尚と昆野勝への、「アンフォルメルの嵐」のP63とP68-69とP71に昆野勝への、P77に豊島弘尚への、「狂乱のネオ・ダダ」のP101とP114、「読売アンパン轟沈す」のP122に吉野辰海への、「岡本太郎の<塔>」のP57、「読売アンパン轟沈す」のP121とP124とP135、「「九州派」の英雄たち」P188、「モルモット・アンダーグラウンド」のP219、「嗚呼千里丘陵」のP244、「自由梱包、行きつく果ては……」のP252に糸井貫二への、「嗚呼千里丘陵」のP241に井手則雄への、それぞれ言及がある。
M-IK-1971-001 美術手帖1971年10月号 美術手帖編集部 1971 美術出版社< 「特集 集団の波・運動の波―60年代美術はどう動いたか」の中原佑介「物質から<空間>へ 読売アンデパンダン展以後」のP38に、1962年の第14回読売アンデパンダン展において、「ワイセツの恐れがある」という理由で作品が撤去された人物として、吉岡康弘と共に糸井貫二の名前が挙がる。ヨシダ・ヨシエ「戦後前衛所縁の荒事十八番〈九州派〉の英雄たち」のP225に、百道海水浴場で1962年11月15日に開催された「英雄たちの大集会」で糸井貫二が披露したパフォーマンスの様子が描写されている。
M-IK-1971-002 美術手帖1971年12月号 美術手帖編集部 1971 美術出版社 ヨシダ・ヨシエ「戦後前衛所縁の荒事十八番嗚呼千里丘陵」のP225、ヨシダが「六九年の春」、「幅広い状況への関心を、もういちど万博問題を中心に討論する機会をつくろうと、立場の異なる幾人かの者と会合をもった」として、名前を挙げる中に、井手則雄の名前がある。P226、ヨシダが大阪万博会場の「お祭り広場」について綴った文章の末尾は以下の文で締められている。「ひとりの青年が、その管理のまなざしを妨げるために、その塔に登り、その下を全裸の糸井寛二が"人間蘇生"の血をざわめかせながら疾走したのは、のちのことであった。」糸井の名前は「寛二」と誤記されている。
M-IK-1971-003 美術手帖1971年11月号 美術手帖編集部 1971 美術出版社 ヨシダ・ヨシエ「戦後前衛所縁の荒事十八番モルモット・アンダーグラウンド」のP199に、1967年12月1日の由比忠之進追悼儀式後、「わたしはその夜、糸井寛二とともに、また西口派出所へひっぱられた。」という文がある。糸井の名前は「寛二」と誤記されている。
M-IK-1971-004 週刊少年サンデー1971年3月号変な芸術家特集 渡辺静夫編集人 1971 小学館 巻頭の特集「ヘンな芸術!!サンデー狂気見本市」のP9に、「殺すな」と書かれた紙を持って路上を歩く糸井貫二の写真(羽永光利撮影)が掲載されている。「ハダカこそすべて」と題し、「このダダ・カンと呼ばれる男、人と触れあうには、ハダカが本当だ。と、いつもスッ裸で狂気の行為を続ける裸体行動芸術家の教祖的人物。(改行)万博太陽の塔の下をハダカで走ってつかまったり、精神病院に強制収容されたりしたのでーす。」というキャプションが付されている。
M-IK-1972-001 映画評論昭和47年8月号第26巻第8号 映画評論編集部編 1972 映画出版社 「特集インタビュー評論ディスカバー・アヴァンギャルド」のヨシダヨシエ「佯狂から陽狂に病状悪化したハ、ハ、ハプニスト中島由夫」のP65(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号33)に、第十五回アンデパンダン展において会場の東京都美術館入口で中島由夫と糸井貫二(文中では、「糸井寛二」と誤記されている)が披露したパフォーマンスを、その場にいたヨシダが描写している。P66(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号34)において、中島由夫がヨシダとの対談の中で、ダダカンとの出会いやアンビートとダダカンの付き合いについて語っている。
M-IK-1972-002 美術手帖1972年12月号 福住治夫編集人 1972 美術出版社 「今月の焦点」の斎藤俊徳「技術社会に挑戦の狼煙を」のP12に、広島市で開催された「アーバン・オープン・スペース・イン・ヒロシマ」というイベントにメール・メッセージを寄せた参加者の名前が挙げられる中に、糸井貫二の名前がある。
M-IKIS-1972-001 黒の手帖2月号特集-心霊術(第二巻第二号通巻11号) 野原豊編集人 1972 檸檬 P6に自宅の応接間で裸で座っている糸井貫二のカラー写真が掲載されており、「聖なる狂者 ダダカン糸井貫二) Happy Family」とキャプションが付されている。P91-103に「小特集聖なる狂者・ダダカン糸井貫二)」と題し、P91に糸井貫二「土びん掛けの儀式」(糸井によるパフォーマンス構想)、P92-96に加藤好弘「狂気革命のメッセンジャー」(「狂気革命」の横に「クレージー・ラブ」とフリガナ。糸井の生涯と表現について綴った文章)、「ダダカン送信・日記帖」(糸井から加藤好弘に送られた1971年8月から10月の日記と版画のモノクロ図版)、さいとう・よしあき「優しい目はなぜ狂気なのか」(糸井の生活や行いを紹介する文章)がそれぞれ掲載されている。加藤の文には、糸井が万博会場で「三百米つっ走った」と記されているが、これは誇張であり、実際走ったのは15~30m程度だったようである。「ダダカン送信・日記帖」に、それぞれ以下の記載あり。P98、8月25日に「タントラポスター〈水上氏よりの〉俳句二ツ石川舜さんへ。」と「さいとう氏へ アイヌ本広告、切りぬき。」、8月29日に「仙台よりさいとう、いしかわ、さとう、ろいやるの各士参」。P99、9月3日に「石川舜氏へ 死型工房通信(カンより第3信)。」、9月4日に「舜氏へ 俳句8ホルモンつつくキツツキ、艶コント、うら窓封筒。」、9月7日に「さいとう氏へ 焼札5万円。」と「石川氏へ 納豆便壱千万円焼却伺内封。」。P100、9月8日に「一千万円焼却の儀式」終了の宣言と共に、「焼イタ札11枚<1万円札>…文書送達先」として「蚕叢(5枚)。石川舜<一千万円焼却予定ハガキ長銀宛>」(「蚕叢」は前ページ9月7日の記載から、さいとう・よしあきを指すものか)、9月16日に「でんわサイトウ氏より 18日アート祭参加する由(勾当台公園)。」、9月20日に「9・19より4通電話、蚕叢より次の儀実行報告-鈴木征一結婚式会場、一万円札もやすあいさつ。」。P101、10月8日に「五十嵐次郎 写真ケイサイ<次郎さんサツエイもの>御礼(ウルトラ・トリップPRカードにて。」、10月10日に「メールハプ教祖蚕叢へ 元殺人戦車団長、現平和赤肉団長より学会、斉藤進さんへハガキ+進着信+ウルトラハガキ2枚、定形15円。」と「蚕叢氏来訪 みやげ品多数。写真-ダダカン宅、大滝キャンプ、大地のまつり、毛主席バッヂ、週刊大衆にヨシオ記事のる、赤肉団タカ張りちょうちん。返礼としてスキー杖、赤い風舟に出た写真(水上旬氏ウツシ)堕腹掛。」。

2023年2月15日公開