宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

はじめに ーこのブログについてー

宮城県前衛芸術資料室」へようこそ!
ここは、AOGP代表の鈴木が調査・収集した宮城県の前衛芸術に関する情報を公開すると共に、その魅力を紹介していくことを目的としたブログです。
しばらくは、関連資料の一覧と年表づくりに注力することになるかと思いますが、気楽に読んで楽しめるようなコラムも、更新の合間に書いていこうと考えています。
 
また、主な研究対象は当面、宮城四郎、宮城輝夫、糸井貫二ダダカン)、石川舜の四氏に絞るつもりです。
この4人を選んだのには、訳があります。
 
表現活動に幅広くかかわる『AOGP』という団体を2003年に立ち上げてから自分が出会った、気の合う年上の表現者たちの口から「宮城先生」という名前が出てくることが何度もありました。「宮城先生」こと、宮城輝夫って、一体どんな人なんだろう?と興味を持ったのが、宮城県の前衛芸術について調べはじめるきっかけでした。
調べてみると、その作品のみならず、言葉や活動も非常に魅力的で、もっと知りたい…周りの人たちにも知らせたい…という気持ちが高まり、機会を見ては、その紹介に努めてきました。
たとえば、2010年前後に書いていたブログへの紹介記事のアップ、東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻による教育プログラム「せんだいスクール・オブ・デザイン」発行の文化批評誌『S-MEME』第4号と第5号への『宮城県現代美術百年史』(前後編)という文章の寄稿、宮城輝夫の作品を多数保管している丸森町の宮城輝夫作品展への協力、SARPで開催された『前夜祭・2012仙台アンデパンダン』における宮城輝夫作品のキュレーション等々。
 
上述のような活動を行っているうちに、人脈が広がっていき、宮城輝夫先生と親交があったダダカンさん、石川舜さんともお知り合いになることができました。
このおふたりがまた、その表現・お人柄ともに非常に魅力的だったために、自分はすぐファンになってしまいました。
残念なことに、一昨年(2021年)相次いでご逝去されてしまい、もうお会いできないのは本当につらく悲しいことです。まだまだ聞いてみたいことはたくさんありました。
記憶が鮮明なうちに、このお二方から自分が受けた印象と思い出を書き留めたい、と考えています。
 
宮城輝夫の資料を収集していく中で、そのすぐ上の兄であり、早逝した画家の宮城四郎についての資料も少しずつ手元に集まりました。それにつれて、これまで同氏について書かれた文章に誤りや不正確な記述が多いことが分かってきました。
誤った情報が流布しているのを放置しておくのも忍びないため、自分が調べた範囲で宮城四郎の生涯をできる限り正確に記すつもりでいます。
自分が収集した情報を公開し、共有することは、宮城四郎の思想を理解することに役立つのみならず、まだ研究が十分に進んでいるとは言えない、戦前の東北/宮城の文化人たちの交流や当時の若い表現者たちの考えと活動を明らかにしていくための手掛かりにもなるでしょう。
 
もちろん、宮城県(をはじめとして東北)には、上述した四氏以外にも魅力的な芸術家がたくさんいます。そういった方々についても紹介したい気持ちはやまやまなのですが、自分は凝り性なので、あまり手を広げると、何十年経っても資料収集に没頭してしまい、アウトプットしないままに寿命と貯金を使い果たす可能性があります。
まずはこの四氏の生き様、思想、人柄、作品の魅力を紹介することで、宮城県の前衛芸術を楽しむきっかけづくりができたらいいな、と考えています。宮城県の前衛芸術に目を向け、その精神性に共感するファンが一人でも増えてくれたなら、それほど嬉しいことはありません。
 
さて、簡単に各人の略歴を記します。
 
宮城四郎(1908-1941)は宮城県白石町(現白石市)出身の画家です。
大成を待たず、病気のため33歳の若さでこの世を去りましたが、1930年代、流行に敏感な若者たちに支持され、新傾向の画家たちの受け皿となった美術団体、独立美術協会が運営・公募を行っていた独立展に4回(内1回は没後)、宮城県から入選するなど、確かな実績を残しました。
また、絵画制作のみならず、新しい時代の表現を志す画家たちが集い、作品を発表する場をつくることにも心を砕きました。
東北の画壇に新風を送りこもうと、野心的な展覧会の開催や美術団体の設立にいくつも関わっていたことからも、その先見性を窺い知ることができます。
当時東北では最も大規模な公募展であった東北美術展(現・河北美術展)について「一様に黒と土色とのキャンパスの羅列は何う見ても面白くなく」(※注1)と保守性とマンネリ化を痛烈に非難し、他の独立展入賞者と共に東北独立美術協会を結成する等、中央、そして世界の美術界の新しい思潮と連動した価値観・基準を宮城県の画壇に導入しようとした企らみは、同県における最も早い前衛芸術運動であったと言えるでしょう(もちろん、宮城県出身で、上京して前衛的な活動を行った芸術家ということであれば、尾形亀之助や神原泰のような先人がいることは承知の上で述べています)。
宮城県の保守的な文化風土の構造に目ざとく気づき、危機感を持って同時代性の獲得を訴えた宮城四郎の言葉からは、地方画壇の閉鎖性と権威性を繰り返し批判した宮城輝夫、佐々木正芳、石川舜、村上善男ら、戦後に宮城県をおもな拠点として活動した前衛芸術家たちと重なる姿が浮かび上がります。
 
宮城輝夫(1912-2002)は、シュルレアリスト/画家として紹介されることの多い人物です。
兄の四郎同様、戦前は独立展に入選を重ねると共に、1930年代の東京で前衛芸術活動に青春を捧げます。1941年頃に帰郷し、その後は宮城県に拠点を置きました。1950年代以降、平面的な図形/生物が集合し、謎めいた存在をかたちづくる様を描いた独自の画風を確立すると、その名前は戦前以上に広く知れ渡ります。
1959年にシェル美術賞(3等)受賞、1960年に超現実絵画の展開展(国立近代美術館)招待出品、1964年に第1回長岡現代美術館賞展の出品作家に選出―と、既成の公募展とは一線を画す新潮流の美術賞/美術展に名を連ね、遅咲きの画家としてブレイクしました。
とは言え、単に「画家」と紹介されるのは、本人にとっては不本意かもしれません。以下のような言葉が残っています。
 
「皆さん、ぼくを絵描きだと思ってらっしゃる方が大勢…大部分そう思ってらっしゃるから、まずぼくは絵描きなんかではない、というふうにお断りしたいと思います。なぜそうなのか、って言うとお天気がいいと絵の具箱さげてベレー帽かぶって、それで体の何倍もあるみたいなキャンバスを手にもって、風が吹こうが雨が降ろうが…ああいうのを勇猛果敢、て言うんだろうと思いますけど…、出かけて、写生に行く。あの人たちが絵描きだったらぼくは絵描きでなくて結構なんです。」(※注2)
 
確かに、宮城輝夫の表現活動は、絵を描いては展覧会で発表する、というような決まりきったルーティンを繰り返すだけのものではありませんでした。その業績は把握しきれないほど、膨大かつ多岐に渡っています。
白石中学校美術部担任であった歌人の野地曠二が主宰する短歌同人誌『防風』への短歌投稿、日本における最初のシュルレアリスム系の美術団体「新造形美術協会」への参加、新宿の映画館におけるマン・レイやデュラックの前衛映画の上映、「前衛写真協会」に参加しての写真作品の発表、と戦前からジャンルの垣根を超えて様々な表現活動に関わっています。
戦後も1951年には宮城県で前衛志向の芸術家たちを集めた美術団体「エスプリ・ヌウボオ」を設立、1964年に仙台アンデパンダン展を企画、さらには美術批評を執筆し、トークショーでの語り手を務め、その一方では新興俳句雑誌の同人となり俳句を発表する等、その旺盛な活動の軌跡はさまざまな場所に残されています。
宮城県において、後進の表現者たちへの影響が非常に大きいことも見逃せません。
ここでは、膨大な量の資料を整理し、その生涯と功績をできる限り詳細に記述しようと試みます。
 
ダダカン」こと糸井貫二(1920-2021)(以下、「ダダカンさん」と表記)は一部に熱狂的なファンを持ち、伝説的な人物として語られることの多い表現者です。
東京に生まれ、2歳の時に関東大震災を経験。太平洋戦争の終戦間際、炭鉱労働に従事した後に召集され、対戦車特攻の訓練をしている最中に終戦を迎えます。
戦後は居住地を転々と変え、俳句、俳石、版画、オブジェ、絵画等、さまざまな形式で作品を発表しますが、次第に各地でゲリラ的なパフォーマンスを披露するようになっていきます。
1970年代に母親の看病に専念して以降は、少数の人間との交流を続け、「鬼放舎」と名づけた仙台の自宅への訪問者を歓待する儀式とコラージュが施されたメールアートが表現の中心になりました。
 
1960年代とその前後の破天荒な行為―読売アンデパンダン展会場での作品撤去や警察への連行、東京オリンピック聖火リレーのランナーにインスパイアされた裸の銀座マラソン大阪万博会場における全裸走といったインパクトの強いエピソードを持つ作品展示とパフォーマンスがとりわけ有名な表現行為ということになるのでしょう。
しかし、その一方で、先述したとおり、1972年から1979年まで母親の介護に専念したような、日々のくらしの中の行いもダダカンさんの精神性を理解する上で無視できません。
ダダカンさんは、「私は私の"行為"を母親の看病に費やすことに決めました」(※注3)と語っています。表現活動を日常生活におけるふるまいとは別の高尚な「行為」とみなすことなく、人にお茶をふるまう、本を貸す、部屋に花を飾るといった、ささやかな行為と同列に、生活の中での自然な気持ちのあらわれとしてさりげなく実現したところに、ダダカンさんの凄さはあると思います。
ダダカンさんやその周辺の表現者の方々と触れ合ううちに、自分はそれまでよりも肩の力を抜き、素直な気持ちで表現活動にかかわることができるようになり、人生がより一層楽しくなりました。
ある時、「(ダダカンさんたちに)遊び方を教えてもらってます」(※注4)と自分が感謝の気持ちを伝えたところ、ダダカンさんは次のように語りました。
 
「ああ。いや、遊びですよ。私はねえ、やはり、このお・・・ちょっとねえ、それは理解されないと困ると思うのは、遊びなんですよ」「ああ。難しいねえ、何か作品を買うからねえ、もう、送ってくれなんて言ってる画廊のあれなんか知らないんですよね、それをね。遊びなんですよ。もう、そんなの・・・売れるからと思ってね、描くようなこと、もう・・・(手を横に振りながら)全然もう、あれだからね」(※注5)
 
権威主義的な美術業界の枠外で、生涯、表現活動を「遊び」のまま「同志」(※注6)たちと楽しみ続けたダダカンさんの生き方は、これからも、同じ精神性を持つ「同志」たちの共感を得て、長く、熱烈に支持され続けるでしょう。
 
なお、本ブログでは、宮城四郎、宮城輝夫、石川舜の三氏について詳細な年譜を作成し、公開することをひとつの目標としていますが、ダダカンさんについては、2021年11月3日から2022年1月9日まで、せんだいメディアテークで開催された『ナラティブの修復』展並びに、同展の記録である『ナラティブの修復』(左右社、2022年刊)において、すでに詳細な年譜が公開されているため、改めて年譜を作成し、公開することは考えていません。
その代わりに、過激なパフォーマンスや、もしくは、タンポポを食べるといった清貧な行為にスポットを当てて極端な面を強調されがちなダダカンさんについて、日常的なふるまいにも等しく目を向けた、親しみやすいポートレートを文章で描きたい、と考えています。
スーパーに買い物に行ってプリンを食べ、NHKの『鶴瓶の家族によろしく』を楽しみにしていたダダカンさんの姿をあるがままに提示することが、その気取らない精神性を真に理解するために役立つはずです。
もちろん、これは、常に自分のそばに置いておきたい、自分にとって忘れたくないダダカンさんの姿を文章で残したいという個人的な願望から生じる表現でもあり、かつ、いつも自分に対して同じ視線の高さで接してくれたダダカンさんにできる、ささやかな返礼の行為でもあります。
 
石川舜(以下、「舜さん」と表記)(1936-2022)は仙台市出身の画家です。
東北学院高校在学時に美術教師を務めていた画家の粟野耿介に出会い、絵画にのめり込みます。
高校卒業後、上京し、国画会美術研究所に入所。鳥海青児の個展を観て衝撃を受け、デッサンを持って自宅を訪問。以後、指導を受けました。
東京で制作と生活を両立する難しさに悩んで1959年に仙台に戻ってきた後は、自身の制作に励むのみならず、1967年には現代作家クラブを結成し同人誌『死角』上で批評活動を展開すると共に西公園アートフェスティバルを企画。さらに、東北の各地と東京を中心に多くの展覧会・アートイベントに出品/出演する等、周りの表現者たちを巻きこみながら、旺盛な活動を続けました。
 
画風や表現方法は都度変化し、オブジェの制作やパフォーマンスを行った時期もあります。しかし、舜さんは決して、その時その時の流行を軽薄に追っていた訳ではありません。
むしろ、外部の声を気にすることなく、雑念を排除した自分の心情や精神性をできるだけ直截的に絵に反映させる方法を模索して、さまざまな方法に挑戦し続けました。その結果が、多彩な表現活動につながったと言えるでしょう。
 
作品ごとに見かけは大きく異なっていますが、舜さんの表現には、2つの傾向があることを指摘できます。
 
ひとつは、作品に過剰なエネルギーが注がれていること。
筆圧強く、黒く塗りつぶされて異様な迫力がある初期のデッサン、細密な模様が画面の隅々まで描きこまれた『土龍の夢』シリーズ、百五十号のキャンバスを横に4枚連ねて描かれた巨大な油彩画『再現』といった作品の前に立つと、舜さんの絵にかける、並々ならぬ情熱が感じられます。
 
もうひとつは、徹底的な自己反省です。
キャンバスを切り抜き、切り抜いた部分を裏返しにして縫い戻す『切り離して縫い戻す』シリーズ、一見、キャンバスに切れ目を入れたかのように見える「だまし絵」のような『切った様に画く』シリーズ、描かれたのではなく、絵の具を両側から押し寄せて盛り上げるようにして生み出された線が画面を走る『歪みの系譜』シリーズ―これらのコンセプチュアルな作品群は、舜さんが、より純粋に絵とかかわり合う方法を手に入れるために「描く」という行為をさまざまに見つめ直し、模索する過程で生まれたのでしょう。
 
また、舜さんは、自身の絵に対する思いを「恋」、制作を仏教の「行(ぎょう)」という言葉を用いて説明していました(※注7)。
「恋」と「行」?一見、同居しえない概念のように思えますが、第三者の評価や価値観を介在させずに、対象(恋の場合は恋愛対象、行の場合は自身の心)と純粋な気持ちで向き合う行為、と捉えると、その点においては、どちらも共通しています。
画壇の評価や名声といった雑音を遠ざけ、自らの心に正直にキャンバスとかかわろうと努めた舜さんの制作姿勢を示すのにこれほど適切なアナロジーはないでしょう。
舜さんが好んだこれらのアナロジーを使って捉え直すと、先に挙げた2つの傾向が舜さんの表現にあらわれる理由を、より理解できるはずです。
過剰なエネルギーを注ぎ込んだ作品制作は、舜さんにとって、絵への有り余る恋情を人一倍情熱的なラブレターへとしたためるようなものだったかもしれません。同時にそれは、一心不乱に修行へ打ちこむのと同意義な行為でもありました。
徹底的な自己反省は、恋愛対象である絵へのアプローチの仕方をいろいろと変えて、より純粋な関係性を結ぼうと悩みもがいた結果と言えるかもしれません。また、制作が「行のようなもの」である、という観点からは、自身が進むべき道を見つめ直すために、一度確立したスタイルを壊しては、我執を捨てて無心にかえろうとした証しとも言えそうです。
いつお会いしても、話すことは絵のことばかりで、スペースさえあればまた巨大な作品を描きたい、と語る等、制作意欲は一向に衰えない様子でした。
きっと新しい作品の構想も頭の中にはあったでしょう。もう新作を観ることが叶わないのは、本当に残念です。
 
さて、これまで述べてきたように、ここで取り上げる四人はそれぞれが独自のスタイルを持ち、理想としていた生き方もおそらく異なりますが、権威性(たとえば、国家権力といった意味ではなく、もっと広義に、画壇やアート業界をはじめ、どんな世界にも存在する権威性を指しています)を徹底的に拒絶した姿勢は共通しています。
とはいえ、この四人が清廉潔白で高潔な偉人である等と持ち上げるつもりはありません。
それぞれ、人間としての弱みや欠点はもちろん持っていて、特に舜さんとダダカンさんについて言えることですが、あえてそれを他人にさらけ出すことで、誰とでも同じ視線の高さで接することのできる親しみやすさを見事に獲得していました。
たとえば、SARPで2012年に開催されたトークショーにおいて、舜さんは「いつも何だか、昔の絵ばっかし舜ちゃんは気にしてるんだね」(※注8)と従兄弟にからかわれたエピソードを紹介しています。
からかわれた舜さんは過去に執着していないことを示すために、自分の絵に傷をつけたそうです。
「それほどでもないよって言って、持ってたはさみをここにブスッと刺してね、いつものとおり壊した絵が随分ある」(※注9)にもかかわらず、実は、「本当はやめたいんだから」(※注10)と惜しむ気持ちがあったことを明かして笑い話にしていました。
西公園アートフェスティバルで世界美術全集を破って素材にし、屑籠を制作したエピソードも忘れられません。
「世界美術全集があるから、わたしは芸術大学だとか考えてみたりね、いろんなことを考えるんだよなってな感じでね、まあそれを自分の中から払拭するために紙くずかごを作るわけ」(※注11)と制作の動機を語ったすぐ後に、「(世界美術全集を)もう一回買いそろえるわけだから私は後で、もったいないことしたなあ、と思って。本当にね、意志が薄弱といえば薄弱なんだ。」(※注12)と、結局は自分も世の中の美術の文脈から逃れきることができなかった画家のひとりであることを吐露してみせるのは、いかにも舜さんらしい正直さで、思わずクスリと笑ってしまいます。
 
ダダカンさんも舜さんと似たところがあり、自身の都合のわるいことや恥ずかしい失敗について包み隠さず、笑いながら話してくれる方でした。
息子さんが中学生の時にアルバイトをして買ってくれた「新しい真っ白なワイシャツ」をハサミで切り、「殺すな」と書いてパフォーマンスに使用してガッカリされた話や、大人になってからもお父さんに生活費を仕送りしてもらっていた話を臆面もなく語り、「親父にも頭があがらないし、息子にも頭があがらない」(※注13)と笑っていました。
舜さんもダダカンさんも、自身の未熟さや欠点を認めて、ごまかすことなく他人にさらけ出すことにより、畏敬されることを避け、誰とでも自然に同じ視線の高さで接することのできる雰囲気をまとっていました。
逆説的ですが、仮に、一点の曇りもなく清らかな魂を持つ、高潔な反権威の闘士、といったふうの人がいても、きっとその人は一部から英雄視され、自身につきまとう権威性をふり払うことができないでしょう。
適度にダメ人間な舜さんやダダカンさんの方が、隙があることでかえって、反権威の精神性を完全に体現することに成功していたように思えます。
お二方とも、年下の人間に近寄りづらさを感じさせず、常に若い世代から慕われていたのも、こうしたふるまいによるものでしょう。
彼らの、嘘がなく、しなやかで軽やかな精神性と人間味あふれる魅力についても、後々、深く掘り下げていきたいと考えています。
 
最後に、宮城県の前衛芸術に触れる方法をいくつか記します。
仙台に来たなら、まずは、宮城四郎、宮城輝夫、石川舜らの作品を所蔵している宮城県美術館へ。
タイミングが良ければ、常設展で彼らの作品を鑑賞することができます。宮城輝夫と舜さんが師事した川口軌外や、舜さんが敬愛した鳥海青児の作品も常設展によく展示されています。
宮城県美術館の企画展/特別展の図録のいくつかにおいても、宮城県の前衛芸術の作品のカラー図版を見つけることができるでしょう。
宮城県最南部にある丸森町は宮城輝夫没後に作品・蔵書の寄贈を受け、多くの作品を所蔵しています。時折宮城輝夫作品展を開催しているので、チェックしてみてください。
また、宮城県の前衛芸術のキーパーソンのひとり、佐々木正芳の作品は、仙台西部の秋保(あきう)地区にある「秋保の杜 佐々木美術館&人形館」で観ることができます。こちらにも、ぜひ足を運んでほしいところです。
 
関連書籍は、宮城県内の図書館/古書店で比較的簡単に、手に取ることができるかと思います。
宮城県の前衛芸術の大まかな流れを知りたい方は、手前味噌ですが、『S-MEME』第4号(五十嵐太郎ほか、2012年、せんだいスクール・オブ・デザイン)と同誌第5号(五十嵐太郎ほか、2013年、せんだいスクール・オブ・デザイン)に連載された、筆者による「宮城県前衛芸術百年史」(前後編)をご一読ください。
宮城県芸術年鑑平成2年度』(宮城県生活福祉部文化振興室編、1991年、宮城県生活福祉部文化振興室)では、『宮城県における戦後四半世紀の文化活動史』という特集が組まれており、同特集の西村勇晴(当時宮城県美術館企画科長)による『シリーズ(その十一)洋画』を読めば、戦前からの宮城県の洋画史を概観することができます。
宮城県芸術年鑑平成10年度』(宮城県環境生活部生活・文化課編、1999年、宮城県環境生活部生活・文化課)には、「特集この人にきく(その二)」というインタビュー企画のうちの一つとして、やはり西村勇晴によるインタビュー「宮城輝夫氏にきく」が7ページにわたって掲載されており、戦前からの貴重な表現活動の軌跡が宮城輝夫自身の言葉で語られています。
『宮城四郎 宮城輝夫の人と芸術』(吉見庄助、1974年、白石美術愛好会)は宮城四郎の中学校時代の同級生であり、戦後宮城輝夫と共に宮城県の前衛芸術活動をリードした画家の吉見庄助による小冊子です。宮城四郎の生涯をまとまった形で読むことができるのは、今のところ、唯一この資料だけです。
 
ダダカンさんについて知りたいのであれば、『篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎、2007年、河出文庫)が一番手軽に入手できるでしょう。伝聞の形での記載が多く、記載内容の真偽について十分な検証が為されているとは言い難いのですが、はじめてダダカンという名前を広範に知らしめた本であり、90年代後半、サブカルチャー愛好者たちがどのようにダダカンさんのことを知ったのかを追体験することができるかと思います。
より詳しくダダカンさんについて知りたい方は、『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(黒ダライ児、2010年、grambooks)、『ナラティブの修復』(ダダカン連ほか、2022年、左右社)を手に取るとよいでしょう。それぞれ、綿密な研究を基にしてダダカンさんを特集した章があります。
 
『第5回「みやぎの5人」展図録』(宮城県美術館編集、1988年、宮城県美術館)、『アートみやぎ 2007図録』(三上満良・加野恵子編、2007年、宮城県美術館)には、石川舜さんの作品のカラー図版が多数収録されています。
SARPのウェブサイトに掲載されたトークショーの記録「【トーク】石川舜トークショー(聞き手:鈴木直樹2012年6月2日SARP)」も、ぜひご覧ください。
他、ウェブサイト「吉見庄助の世界」では、宮城四郎・宮城輝夫と同郷で活動を共にした画家、吉見庄助のプロフィールや作品の画像を観ることができます。
 
このブログで公開する情報には正確を期すつもりですが、もしご指摘やご提供いただける情報がありましたら、aogp03[at]hotmail.com([at]を@に置き換えて送信してください)まで気軽にご連絡いただけると嬉しいです。
ご指摘・ご批判、大歓迎です!
現代美術について詳しくない、という方々であっても、ここで紹介する表現者たちの精神性に共感でき、楽しめるような文章をアップしていく予定です。
ゆっくりのペースにはなってしまうかと思いますが、少しずつコンテンツを増やしていきますので、楽しみにお待ちください。
 
2023年1月15日 鈴木直樹
 
P.S.
たくさんの資料や情報を提供してくださった、青野文昭さん、上原木呂さん、増子静さん、上野美樹さん、ガラさんをはじめとした、多くの方々に心より感謝いたします。
宮城輝夫についての記述がある本が入荷したら連絡をくれたり、貴重な資料をコピーさせていただいたり、と、いくつかの古書店の方々にも非常にお世話になりました。
また、ダダカン連の活動には非常に刺激を受け、勝手に、遅々として進まない作業の尻を叩かれた気分になりました。
2014年に急逝された丸森町教育委員会生涯学習班の故・伊藤博道さんのことはずっと頭から離れませんでした。
本来の専門は考古学とのことでしたが、丸森町が保管している宮城輝夫作品の活用と広報について熱心に取り組んでいらっしゃいました。亡くなる直前まで頻繁にやり取りをしており、前衛芸術の面白さが最近分かってきた、とおっしゃっていた矢先のご逝去だったため、自分も気落ちして、しばらく資料の整理や調査から離れ、ブランクを作ってしまいました。
まだまだ宮城輝夫作品展にも協力したかったし、研究の成果を伊藤さんに面白がってもらいたかったです。
伊藤さんの取り組みを無駄にしないためにも、今後、宮城輝夫についての研究を進展させていきたいと考えています。
 
※注1 『宮城四郎 宮城輝夫の人と芸術』(吉見庄助、1974年、白石美術愛好会)P10~P11に引用された文章からの孫引き。吉見によると、元の文章は、「某新聞」に四郎が国枝進というペンネームを用いて書いた「第三回東北美術展評」であるそうですが、筆者はまだ、この「某新聞」を特定できていません。
 
※注2 1995年2月26日、エル・パーク仙台ギャラリーホールで開催された「仙台シネマ倶楽部第25回特別例会『映像で蘇るジャン・コクトーの世界』」における宮城輝夫の特別講演『コクトーと彼をめぐる人々』記録より
 
※注3 『篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎、2007年、河出文庫)より。同著は1998年に太田出版から出版された後、2007年に文庫版あとがきと本橋信宏による「解説」を追加して文庫化された。河出文庫版P333より引用。
 
※注4、注5、注13 2011年10月15日鬼放舎訪問記録映像(鈴木直樹撮影)より文字起こし
 
※注6 ダダカンさんが、自身の表現に理解を示したり、価値観や表現の面白さを共有できる人々を指す際に用いた言葉。筆者もこのように呼ばれたことがあります。前掲の『箆棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝』においても、竹熊健太郎氏に対して「私は竹熊さんを勝手に"同志"と呼んでいるのです」(河出文庫版P323)と語っています。
 
※注7 たとえば、舜さんの言葉として、以下のような記録が残っています。
「絵画は放棄しない、描かなくても。中学三年の時、絵に恋をした時から、絵描きをやめる時は死ぬぞ、と決めたんだから。」(1995年にワッツ・アート・ギャラリーにおいて開催された石川舜個展『再現』に伴って企画されたインタビュー記録より。聞き手は武田昭彦氏)
「作者は「絵画を描くことは行のようなものだ」という。」(『第5回「みやぎの5人」展図録』(宮城県美術館編集、1988年、宮城県美術館)所収の新田秀樹「石川舜の絵画世界」P16より)
「結局は美術に初恋をしてしまったんだよね。女性を好きになるよりも美術が好きになってしまった。」(【トーク】石川舜トークショー(聞き手:鈴木直樹2012年6月2日SARP)
 
※注8~注12 前掲「注7」で挙げた、ウェブページ「【トーク】石川舜トークショー(聞き手:鈴木直樹2012年6月2日SARP)」より。