宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

宮城四郎関連資料1(1908-1945年発行/発表分)

最終更新:2023年4月12日(最新の更新箇所は赤字で記載)

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管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
B-M4-1928-001 弘前高等學校一覧 (自昭和三年四月至昭和四年三月) 弘前高等學校編 1928 弘前高等學校 「生徒氏名」の章において、P235(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号125)にて、「理科第一學年第二學級(四十一名)」に「白石 宮城四郎(宮城)」の名前がある。白石中学校時代の四郎の同級生の亘理二郎の名前も同学級に見える。なお、亘理二郎は昭和二年度の弘前高等學校一覧においても、すでに同学級に名前がある。
B-M4-1929-001 弘前高等學校一覧 (自昭和四年四月至昭和五年三月) 弘前高等學校編 1929 弘前高等學校 「生徒氏名」の章において、P243(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号130)にて、「理科第一學年第二學級(四十名)」に「白石 宮城四郎(宮城)」の名前がある。
N-M4-1929-001 弘前新聞昭和4年9月28日 1929 弘前新聞社 3面、「サイプレス洋畫展一日延期に決す」という記事に、一番町角はデパートで9月27日から9月29日まで開催された弘前高等学校美術部のサイプレス洋画展の出品作家と出品作品一覧が掲載されており、「宮城四郎『水邊』『女A』『女B』『靑衣の男』『オカリーナ』」と記載されている。また、同面には、棟方志功寄稿の「サイプレス洋畫展を觀て」という展評の1回目が掲載されており、小高根二郎の作品に対する評が掲載されている。
N-M4-1929-002 弘前新聞昭和4年9月29日 1929 弘前新聞社 棟方志功寄稿の「サイプレス洋畫展を觀て」という展評の2回目が掲載されており、宮城四郎の作品に対して以下の評が掲載されている。「宮城四郎様 派手で落着いて突飛を望んで居ます、色にはませた(筆者注:「ませた」の横に傍点)渋さを選んで悧口です。ねはり(筆者注:「ねはり」の横に傍点)もこれが着くでせう、正直な一本氣質の描心も入ることでせう、これからのそうした意識に打勝つて技工を殺さずに伸びて描けるこれからを見て居ませう、楽しみにしませう(筆者注:原文ではここで改行が入る)譯(筆者注:「わけ」とふりがな)がひそんで(筆者注:「ひそん」の横に傍点)尊さばかりではない本當事(筆者注:「ほんたうこと」とふりがな)を想像までに引づる様な根強さの加はつたこの人の繪のよいところそれが又悪い所に進みたくあるのを真面目に眺め様」
N-M4MT-1934-001 河北新報昭和9年5月4日 1934 河北新報社 7面「東北美術展洋畫出品決定す新出品畫二十五點「昨年に比し力作が多い」喜ぶ兩審査員」という記事中、出品作品の一覧に「〇鐵板を置いた庭」(宮城)宮城四郎」、「〇花(宮城)宮城輝夫▲あまりりす(同上)」と記されている。作品名の前にある「〇」は初出品者を表す。
M-M4-1930-001 同窓會報第七號 葛西不二男編 1930 弘前高等學校同窓會 P30、「校友會彙報」において、後に詩人・作家となる小高根二郎が『サイプレス畫會と一九三〇年』という文章を寄稿。小高根も所属した「サイプレス畫會」が1930年に2回の展覧会を開催し、「宮城四郎、藤野健治、柴田五郎及び小生等」がたびたび自然写生を行ったことを記している。この年誕生した「獨立美術協會に宮城、藤野、柴田三君と共に活躍を期してゐる。」という意気込みを書いて文章は締めくくられている。
N-M4MT-1934-001 河北新報昭和9年5月4日 1934 河北新報社 7面「東北美術展洋畫出品決定す新出品畫二十五點「昨年に比し力作が多い」喜ぶ兩審査員」という記事中、出品作品の一覧に「〇鐵板を置いた庭」(宮城)宮城四郎」、「〇花(宮城)宮城輝夫▲あまりりす(同上)」と記されている。作品名の前にある「〇」は初出品者を表す。
N-M4MT-1934-002 河北新報昭和9年5月8日 1934 河北新報社 5面「第二回東北美術展評2」という記事中、「洋畫 安井曾太郎 中野和高」「第五室」に以下の評がある。「花、アマリヽス(宮城)宮城輝夫 安井「美しいが調子に變化が欲しい、その點小さい方がよい」中野「兩方とも美しい。然し他方寫實的研究をすることを望む」」、「鐵板を置いた庭(宮城)宮城四郎 安井「立体に表現された幹と、平面描寫的な他の部分との關係が餘り別々なのが氣になる、色は惡くない」中野「全体の感じは好きだが、行きつまらぬ勉強を望む」」
N-M4MT-1934-003 河北新報昭和9年10月10日 1934 河北新報社 8面「會と催」欄の「刈田郡」に以下の記述がある。「白石町の北日本洋畫會では十五日から一日間同町公會堂に北日本洋畫展覧會を開催する」。この「北日本洋畫會」は、管理番号「O-M4MT-1935-001」に記載されている、宮城四郎が所属した「北日本洋画協會」と同じ団体の可能性がある。
F-M4MT-1935-001 第三回東北美術展覽會目録 1935 宮城縣、河北新報社 昭和10年6月7日から6月16日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。宮城輝夫『射的』(450円)、吉見庄助『大佛寺喇嘛塔』(30円)、宮城四郎『紫陽花』(150円)の出品が確認できる。
N-M4-1935-001 河北新報昭和10年5月31日夕刊 1935 河北新報社 2面「東北美術の殿堂へ 殺到する傑作群 けふ、東北美術展出品申込締切る 係員も整理に汗だく」という記事中、第三回東北美術展の搬入で会場に訪れた人々が挙げられていく中で、「或は東北帝大法文學部美學科學生宮城四郎君の「鐵屑」「貝殻」「紫陽花」となり、」と記されている。
N-M4MT-1935-001 河北新報昭和10年6月10日 1935 河北新報社 6面「第三回東北美術展短評三」という記事中、「第二部洋畫」「第七室」に宮城四郎「紫陽花」に対する評がある。安井曾太郎は「圖は惡くない、固い、バックの赤色はどうかと思ふ、實物を充分寫生する事を勧める」、中野和高は「面白い事は面白いと思ふ、然しこういふ作風でも、もつと自然を土臺にすると強味が出るのだが」とそれぞれ評している。また、宮城輝夫の作品「射的」のモノクロ図版が「『射的』東京宮城輝夫」というキャプションと共に掲載されている。
O-M4MT-1935-001 昭和十年入学東北帝國大学法文学部学生原簿 1935 東北大学史料館蔵。No.234に宮城四郎の情報が記載されている。また、ダブルのスーツにネクタイを締め、正面を向いた四郎の腰から上が写った写真が貼られている。「家族」欄には、「輝夫」「洋画家独立美術」の記載がある。「本學入學」に「昭和十年四月十二日」、「學歴」に「昭和二年三月宮城縣白石中學校卒業昭和四年十一月弘前高等學校理科乙類半途退学同校ヲ病気ノタメ半退以後洋画ヲ本格的ニ研究セリ」、「休學其ノ他學籍異動等ノ事由年月日」に「胃潰瘍ノ為メ十四年度第全學期昭和十四年三月三十一日附休學肺夫カタルノ為メ十五年度第二三學期昭和十五年八月丗一日附昭和十六年十二月六日死亡」等の記載がある。「宮城縣白石中學校高等學校調」では、「性質」に「温良.熱心」、「品行」に「正」、「勤惰」に「勤勉、在校中欠席七日」、「健康」に「概評乙」、「趣味嗜好」(「嗜」は実際は女へん)に「繪画」、「特有ノ技能{在校中ノ委員選手等有格者ハ其ノ等級等」に「展觀部委員」、「思想上注意ヲ要スベキ事項」に「本校在學中注意ヲ要スヘキ事項ナシ」、「賞罰」に「ナシ」、「教練ノ合否及成績」に「合格」、「備考」に「一.白石中學卒業後昭和三年弘高、理、乙入学、休學昭和四年同大一学期、試験欠席同年十一月十四日同第一学年病氣退学」等の記載がある。「本學調」には、「特徴」に「彩光会指導死後昭和十七年十一月彩光会ニ於遺品展ヲ行フ」、「趣味嗜好」(「嗜」は実際は女へん)に「一、シネマ、音樂、柔道、ボクシング、スキーヲ好ム 一、嗜好(「嗜」は実際は女へん)茶」、「所屬團体其他」に「一、北日本洋画協會員」等の記載がある。他、家族構成についての記述があり、弟の宮城輝夫については「職業・勤先」欄に「洋画家独立美術」と記載がある。
F-M4-1936-001 第四回東北美術展覽會目録 1936 宮城縣、河北新報社 昭和11年5月5日から5月14日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。宮城四郎『習作(静物)』(150円)、狭間二郎『ボラの静物』(販売額の表記なし)の出品が確認できる。
N-M4-1936-001 河北新報昭和11年5月3日 1936 河北新報社 7面「第四回東北美術展入選者 嚴選の關門パス晴の入選者決る日本畫廿四名洋畫六六名」という記事内、洋画の入選者一覧に「習作(仙臺)宮城四郎」とある。
N-M4-1936-002 河北新報昭和11年5月7日 1936 河北新報社 5面「第四回東北美術展短評二」において、宮城四郎「習作(静物)」に対する評がある。安井曾太郎は「色は綺麗だが方々にある藍色が少し目障りだ、殊に右の隅にあるのなんかは要らないやうに想ふ、また調子のないことも欠點だ」、中野和高は「もつと自然から見直してほしい、さうすると畫面の上に調子が現れると思ふ」とそれぞれ評している。
B-M4-1937-001 東北帝國大學一覧昭和十一年度 東北帝國大学編 1937 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P404(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号225)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
B-M4-1937-002 東北帝國大學一覧昭和十二年度 東北帝國大学編 1937 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P440(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号243)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
E-M4-1937-001 第七回獨立展集 1937 朝日新聞社 P22に樋口加六『庭』のモノクロ図版掲載。出陳総目録に「風景 宮城四郎(宮城)」、「風景 狭間二朗(台湾)」、「庭 樋口加六(東京)」の表記あり。
F-M4-1937-001 第七回獨立美術展覧會目録 1937 「第二室」に「五八 風景 宮城四郎 仙臺市越路三五 高平下」と記載あり。また、「第五室」に「一一二 風景 狭間二朗 仙臺市北八番丁 菅原方」、「一一六 庭 樋口加六 東京市中野區櫻山一一」とそれぞれ記載あり。
F-M4-1937-002 第五回東北美術展覽會目録 1937 宮城縣、河北新報社 昭和12年5月5日から5月14日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。狭間二郎『静物』(140円)、宮城四郎『雪景』(500円)の出品が確認できる。
M-M4-1937-001 美術第十二巻第七號四月號 1937 美術發行所 美術評論家佐波甫による『獨立展評』内、「その他注目すべき作家」の一人として、P20において、第二室では十四人の名前が挙げられるが、その中に宮城四郎の名前がある。他、「獨立展入選作評」内、P23で樋口加六の作品について、鈴木武久「諸展覧會評」のP32「フォルム春季展」で吉見庄助の作品について、それぞれ言及がある。
N-M4-1937-001 東京朝日新聞昭和12年3月12日 1937 朝日新聞社 東京版2面に「獨立展入選」と題する記事掲載。「新入選七十名」の名前が挙げられており、「門脇耕(仙台)」、「狭間二郎(宮城)」の名はあるが、なぜか宮城四郎の名前はない。記事中に挙げられている名前は確かに七十名分。なお、これ以前の年の東京朝日新聞の独立展初入選者を発表する記事中にも、宮城四郎の名前はない。
N-M4-1937-002 河北新報昭和12年5月4日 1937 河北新報社 7面、第五回東北美術展の入選者決定を告げる記事中、「雪景 仙臺 宮城四郎」の表記がある。他、狭間二郎、上田耕作らも入選。
N-M4-1937-003 河北新報昭和12年5月10日 1937 河北新報社 5面、審査員の中野和高による「東北美術展洋畫短評」において、宮城四郎『雪景』について以下の評がある。「物の扱ひかたと色彩が調和して快い、唯もつと深味が出たら…と思ふ」
N-M4-1937-004 河北新報昭和12年12月12日夕刊 1937 河北新報社 3面に狭間二郎『風景』と宮城四郎『風景』のモノクロ図版が掲載されており、横には「狭間二朗、宮城四郎獨立二人展 十日より十五日まで仙臺市國分町工藝社にて寫眞(上)狭間二朗氏作の「風景」(下)宮城四郎氏作の「風景」」と記載されている。
B-M4-1938-001 東北帝國大學一覧昭和十三年度 東北帝國大学編 1938 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P302(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号158)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
E-M4-1938-001 第八回獨立展集 1938 朝日新聞社 P4に宮城四郎『都會』の、P5に狭間二郎『思慕』の、P19に樋口加六『寺院風景』の、それぞれモノクロ図版掲載。出陳総目録に樋口加六(東京)の二作品(『寺院風景』と『海』)、「思慕 狭間二郎(東京)」、「都會 宮城四郎(宮城)」の表記あり。
B-M4-1939-001 東北帝國大學一覧昭和十四年度 東北帝國大学編 1939 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P444(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号228)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
E-M4-1939-001 第九回獨立展集 1939 朝日新聞社 P4に宮城四郎『氷原』のモノクロ図版掲載。出陳総目録に「氷原 宮城四郎(宮城)」、「旗 狭間二郎(同)」(「同」は東京を指す)、「庭 會友樋口加六(同)」(「同」は東京を指す)の表記あり。
B-M4-1940-001 東北帝國大學一覧昭和十五年度 東北帝國大学編 1940 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P465にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
B-M4-1941-001 東北帝國大學一覧昭和十六年度 東北帝國大学編 1941 東北帝國大学 「學生生徒」の章において、P477(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号257)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。
N-M4-1941-001 朝日新聞昭和16年4月27日宮城県版地方面 1941 朝日新聞社 「色めくみちのく洋畫壇 近く東北獨立美術協會誕生」と題した記事において「近くは東北獨立美術協會の誕生が實現されようとしてゐる」と記載があり、「第十一回展に縣下から大量の入選を出したのを機に」松田春雄、菅原勝太郎、宮城四郎、菅原俊、佐藤昇、平山惠太郎、上田耕作が「五月七日から一週間」、「合同畫展」を開催すると記されている。
F-M4MT-1942-001 第十二回獨立美術展覧會昭和十七年春目録 1942 「第一室」に「四 犬を抱く人 宮城輝夫 宮城縣刈田郡白石町外北小路八」とある。「第三室」に「一〇二 母子像 (故)宮城四郎 宮城縣刈田郡白石町外北小路八 一〇三 乗馬 (故)同 同」とある。他、「第六室」に狭間二郎、「第九室」に上田耕作の名がある。「昭和十七年三月 獨立美術協會」の「會友」、「獨立美術協會小史」の「第七回展」の「受賞者 協會賞」と「第八回展」の「會友推薦」にそれぞれ、樋口加六の名がある。また、「獨立美術協會小史」の「第十一回展」に「東京、大阪、仙臺、上海の各地に於て夏期講習會開催す」との記載がある。