最終更新:2023年2月4日(最新の更新箇所は赤字で記載)
管理番号 | 資料名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 | 備考 |
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B-M4-1928-001 | 弘前高等學校一覧 (自昭和三年四月至昭和四年三月) | 弘前高等學校編 | 1928 | 弘前高等學校 | 「生徒氏名」の章において、P235(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号125)にて、「理科第一學年第二學級(四十一名)」に「白石 宮城四郎(宮城)」の名前がある。白石中学校時代の四郎の同級生の亘理二郎の名前も同学級に見える。なお、亘理二郎は昭和二年度の弘前高等學校一覧においても、すでに同学級に名前がある。 |
B-M4-1929-001 | 弘前高等學校一覧 (自昭和四年四月至昭和五年三月) | 弘前高等學校編 | 1929 | 弘前高等學校 | 「生徒氏名」の章において、P243(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号130)にて、「理科第一學年第二學級(四十名)」に「白石 宮城四郎(宮城)」の名前がある。 |
M-M4-1930-001 | 同窓會報第七號 | 葛西不二男編 | 1930 | 弘前高等學校同窓會 | P30、「校友會彙報」において、後に詩人・作家となる小高根二郎が『サイプレス畫會と一九三〇年』という文章を寄稿。小高根も所属した「サイプレス畫會」が1930年に2回の展覧会を開催し、「宮城四郎、藤野健治、柴田五郎及び小生等」がたびたび自然写生を行ったことを記している。この年誕生した「獨立美術協會に宮城、藤野、柴田三君と共に活躍を期してゐる。」という意気込みを書いて文章は締めくくられている。 |
N-M4MT-1934-001 | 河北新報昭和9年5月4日 | ‐ | 1934 | 河北新報社 | 7面「東北美術展洋畫出品決定す新出品畫二十五點「昨年に比し力作が多い」喜ぶ兩審査員」という記事中、出品作品の一覧に「〇鐵板を置いた庭」(宮城)宮城四郎」、「〇花(宮城)宮城輝夫▲あまりりす(同上)」と記されている。作品名の前にある「〇」は初出品者を表す。 |
N-M4MT-1934-002 | 河北新報昭和9年5月8日 | ‐ | 1934 | 河北新報社 | 5面「第二回東北美術展評2」という記事中、「洋畫 安井曾太郎 中野和高」「第五室」に以下の評がある。「花、アマリヽス(宮城)宮城輝夫 安井「美しいが調子に變化が欲しい、その點小さい方がよい」中野「兩方とも美しい。然し他方寫實的研究をすることを望む」」、「鐵板を置いた庭(宮城)宮城四郎 安井「立体に表現された幹と、平面描寫的な他の部分との關係が餘り別々なのが氣になる、色は惡くない」中野「全体の感じは好きだが、行きつまらぬ勉強を望む」」 |
F-M4MT-1935-001 | 第三回東北美術展覽會目録 | ‐ | 1935 | 宮城縣、河北新報社 | 昭和10年6月7日から6月16日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。宮城輝夫『射的』(450円)、吉見庄助『大佛寺喇嘛塔』(30円)、宮城四郎『紫陽花』(150円)の出品が確認できる。 |
N-M4-1935-001 | 河北新報昭和10年5月31日夕刊 | ‐ | 1935 | 河北新報社 | 2面「東北美術の殿堂へ 殺到する傑作群 けふ、東北美術展出品申込締切る 係員も整理に汗だく」という記事中、第三回東北美術展の搬入で会場に訪れた人々が挙げられていく中で、「或は東北帝大法文學部美學科學生宮城四郎君の「鐵屑」「貝殻」「紫陽花」となり、」と記されている。 |
N-M4MT-1935-001 | 河北新報昭和10年6月10日 | ‐ | 1935 | 河北新報社 | 6面「第三回東北美術展短評三」という記事中、「第二部洋畫」「第七室」に宮城四郎「紫陽花」に対する評がある。安井曾太郎は「圖は惡くない、固い、バックの赤色はどうかと思ふ、實物を充分寫生する事を勧める」、中野和高は「面白い事は面白いと思ふ、然しこういふ作風でも、もつと自然を土臺にすると強味が出るのだが」とそれぞれ評している。また、宮城輝夫の作品「射的」のモノクロ図版が「『射的』東京宮城輝夫」というキャプションと共に掲載されている。 |
O-M4MT-1935-001 | 昭和十年入学東北帝國大学法文学部学生原簿 | ‐ | 1935 | ‐ | 東北大学史料館蔵。No.234に宮城四郎の情報が記載されている。また、ダブルのスーツにネクタイを締め、正面を向いた四郎の腰から上が写った写真が貼られている。「家族」欄には、「輝夫」「洋画家独立美術」の記載がある。「本學入學」に「昭和十年四月十二日」、「學歴」に「昭和二年三月宮城縣白石中學校卒業昭和四年十一月弘前高等學校理科乙類半途退学同校ヲ病気ノタメ半退以後洋画ヲ本格的ニ研究セリ」、「休學其ノ他學籍異動等ノ事由年月日」に「胃潰瘍ノ為メ十四年度第全學期昭和十四年三月三十一日附休學肺夫カタルノ為メ十五年度第二三學期昭和十五年八月丗一日附昭和十六年十二月六日死亡」等の記載がある。「宮城縣白石中學校高等學校調」では、「性質」に「温良.熱心」、「品行」に「正」、「勤惰」に「勤勉、在校中欠席七日」、「健康」に「概評乙」、「趣味嗜好」(「嗜」は実際は女へん)に「繪画」、「特有ノ技能{在校中ノ委員選手等有格者ハ其ノ等級等」に「展觀部委員」、「思想上注意ヲ要スベキ事項」に「本校在學中注意ヲ要スヘキ事項ナシ」、「賞罰」に「ナシ」、「教練ノ合否及成績」に「合格」、「備考」に「一.白石中學卒業後昭和三年弘高、理、乙入学、休學昭和四年同大一学期、試験欠席同年十一月十四日同第一学年病氣退学」等の記載がある。「本學調」には、「特徴」に「彩光会指導死後昭和十七年十一月彩光会ニ於遺品展ヲ行フ」、「趣味嗜好」(「嗜」は実際は女へん)に「一、シネマ、音樂、柔道、ボクシング、スキーヲ好ム 一、嗜好(「嗜」は実際は女へん)茶」、「所屬團体其他」に「一、北日本洋画協會員」等の記載がある。他、家族構成についての記述があり、弟の宮城輝夫については「職業・勤先」欄に「洋画家独立美術」と記載がある。 |
F-M4-1936-001 | 第四回東北美術展覽會目録 | ‐ | 1936 | 宮城縣、河北新報社 | 昭和11年5月5日から5月14日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。宮城四郎『習作(静物)』(150円)、狭間二郎『ボラの静物』(販売額の表記なし)の出品が確認できる。 |
N-M4-1936-001 | 河北新報昭和11年5月3日 | ‐ | 1936 | 河北新報社 | 7面「第四回東北美術展入選者 嚴選の關門パス晴の入選者決る日本畫廿四名洋畫六六名」という記事内、洋画の入選者一覧に「習作(仙臺)宮城四郎」とある。 |
N-M4-1936-002 | 河北新報昭和11年5月7日 | ‐ | 1936 | 河北新報社 | 5面「第四回東北美術展短評二」において、宮城四郎「習作(静物)」に対する評がある。安井曾太郎は「色は綺麗だが方々にある藍色が少し目障りだ、殊に右の隅にあるのなんかは要らないやうに想ふ、また調子のないことも欠點だ」、中野和高は「もつと自然から見直してほしい、さうすると畫面の上に調子が現れると思ふ」とそれぞれ評している。 |
B-M4-1937-001 | 東北帝國大學一覧昭和十一年度 | 東北帝國大学編 | 1937 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P404(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号225)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
B-M4-1937-002 | 東北帝國大學一覧昭和十二年度 | 東北帝國大学編 | 1937 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P440(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号243)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
E-M4-1937-001 | 第七回獨立展集 | ‐ | 1937 | 朝日新聞社 | P22に樋口加六『庭』のモノクロ図版掲載。出陳総目録に「風景 宮城四郎(宮城)」、「風景 狭間二朗(台湾)」、「庭 樋口加六(東京)」の表記あり。 |
F-M4-1937-001 | 第七回獨立美術展覧會目録 | ‐ | 1937 | ‐ | 「第二室」に「五八 風景 宮城四郎 仙臺市越路三五 高平下」と記載あり。また、「第五室」に「一一二 風景 狭間二朗 仙臺市北八番丁 菅原方」、「一一六 庭 樋口加六 東京市中野區櫻山一一」とそれぞれ記載あり。 |
F-M4-1937-002 | 第五回東北美術展覽會目録 | ‐ | 1937 | 宮城縣、河北新報社 | 昭和12年5月5日から5月14日まで開催された同展の目録。モノクロ図版数点掲載。狭間二郎『静物』(140円)、宮城四郎『雪景』(500円)の出品が確認できる。 |
M-M4-1937-001 | 美術第十二巻第七號四月號 | ‐ | 1937 | 美術發行所 | 美術評論家佐波甫による『獨立展評』内、「その他注目すべき作家」の一人として、P20において、第二室では十四人の名前が挙げられるが、その中に宮城四郎の名前がある。他、「獨立展入選作評」内、P23で樋口加六の作品について、鈴木武久「諸展覧會評」のP32「フォルム春季展」で吉見庄助の作品について、それぞれ言及がある。 |
N-M4-1937-001 | 東京朝日新聞昭和12年3月12日 | ‐ | 1937 | 朝日新聞社 | 東京版2面に「獨立展入選」と題する記事掲載。「新入選七十名」の名前が挙げられており、「門脇耕(仙台)」、「狭間二郎(宮城)」の名はあるが、なぜか宮城四郎の名前はない。記事中に挙げられている名前は確かに七十名分。なお、これ以前の年の東京朝日新聞の独立展初入選者を発表する記事中にも、宮城四郎の名前はない。 |
N-M4-1937-002 | 河北新報昭和12年5月4日 | ‐ | 1937 | 河北新報社 | 7面、第五回東北美術展の入選者決定を告げる記事中、「雪景 仙臺 宮城四郎」の表記がある。他、狭間二郎、上田耕作らも入選。 |
N-M4-1937-003 | 河北新報昭和12年5月10日 | ‐ | 1937 | 河北新報社 | 5面、審査員の中野和高による「東北美術展洋畫短評」において、宮城四郎『雪景』について以下の評がある。「物の扱ひかたと色彩が調和して快い、唯もつと深味が出たら…と思ふ」 |
N-M4-1937-004 | 河北新報昭和12年12月12日夕刊 | ‐ | 1937 | 河北新報社 | 3面に狭間二郎『風景』と宮城四郎『風景』のモノクロ図版が掲載されており、横には「狭間二朗、宮城四郎獨立二人展 十日より十五日まで仙臺市國分町工藝社にて寫眞(上)狭間二朗氏作の「風景」(下)宮城四郎氏作の「風景」」と記載されている。 |
B-M4-1938-001 | 東北帝國大學一覧昭和十三年度 | 東北帝國大学編 | 1938 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P302(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号158)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
E-M4-1938-001 | 第八回獨立展集 | ‐ | 1938 | 朝日新聞社 | P4に宮城四郎『都會』の、P5に狭間二郎『思慕』の、P19に樋口加六『寺院風景』の、それぞれモノクロ図版掲載。出陳総目録に樋口加六(東京)の二作品(『寺院風景』と『海』)、「思慕 狭間二郎(東京)」、「都會 宮城四郎(宮城)」の表記あり。 |
B-M4-1939-001 | 東北帝國大學一覧昭和十四年度 | 東北帝國大学編 | 1939 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P444(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号228)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
E-M4-1939-001 | 第九回獨立展集 | ‐ | 1939 | 朝日新聞社 | P4に宮城四郎『氷原』のモノクロ図版掲載。出陳総目録に「氷原 宮城四郎(宮城)」、「旗 狭間二郎(同)」(「同」は東京を指す)、「庭 會友樋口加六(同)」(「同」は東京を指す)の表記あり。 |
B-M4-1940-001 | 東北帝國大學一覧昭和十五年度 | 東北帝國大学編 | 1940 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P465にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
B-M4-1941-001 | 東北帝國大學一覧昭和十六年度 | 東北帝國大学編 | 1941 | 東北帝國大学 | 「學生生徒」の章において、P477(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号257)にて、法文学部聴講生の昭和十年入学者一覧に宮城四郎の名前がある。 |
N-M4-1941-001 | 朝日新聞昭和16年4月27日宮城県版地方面 | ‐ | 1941 | 朝日新聞社 | 「色めくみちのく洋畫壇 近く東北獨立美術協會誕生」と題した記事において「近くは東北獨立美術協會の誕生が實現されようとしてゐる」と記載があり、「第十一回展に縣下から大量の入選を出したのを機に」松田春雄、菅原勝太郎、宮城四郎、菅原俊、佐藤昇、平山惠太郎、上田耕作が「五月七日から一週間」、「合同畫展」を開催すると記されている。 |
F-M4MT-1942-001 | 第十二回獨立美術展覧會昭和十七年春目録 | ‐ | 1942 | ‐ | 「第一室」に「四 犬を抱く人 宮城輝夫 宮城縣刈田郡白石町外北小路八」とある。「第三室」に「一〇二 母子像 (故)宮城四郎 宮城縣刈田郡白石町外北小路八 一〇三 乗馬 (故)同 同」とある。他、「第六室」に狭間二郎、「第九室」に上田耕作の名がある。「昭和十七年三月 獨立美術協會」の「會友」、「獨立美術協會小史」の「第七回展」の「受賞者 協會賞」と「第八回展」の「會友推薦」にそれぞれ、樋口加六の名がある。また、「獨立美術協會小史」の「第十一回展」に「東京、大阪、仙臺、上海の各地に於て夏期講習會開催す」との記載がある。 |
B-M4-1963-001 | 阿部次郎全集第15巻 | 阿部次郎 | 1963 | 角川書店 | 昭和17年の日記にそれぞれ以下の記載あり。P108、十月三十一日「午後三越行獨立展一瞥、宮城四郎の遺出色」。P109、十一月十九日「宮城四郎遺作展紹介文をかく」。P110、十一月二十七日(東北帝大出勤の)「歸途藤崎に宮城四郎遺作展を見る」。なお、P9、昭和9年の一月五日「……日中年賀状、四時過外出、春日の例會七時より。原、宮城、佐藤と余との四人のみにて他の五人は差支不参。Fall M.」とあるが、これはおそらく、無名会の会員、原龍三郎、宮城音五郎、佐藤彰をそれぞれ指しており、宮城四郎のことではないだろう。 |
B-M4MT-1974-001 | 宮城四郎 宮城輝夫の人と芸術 | 吉見庄助 | 1974 | 白石美術愛好会 | 白石市図書館新築記念の宮城四郎・輝夫展開催に併せて限定300部発行された冊子。宮城四郎・輝夫兄弟について同郷の吉見庄助がその「人となり」や生い立ちを記す。巻頭に宮城四郎の油彩画『雪の街』と『三陸海岸』のモノクロ図版掲載。『雪の街』は他の資料では、『風景』というタイトルを付されている。P7に宮城四郎が弘前高等学校に入学したのが「昭和五年四月」という記述があるが、「昭和三年四月」が正しい。P13に、宮城四郎が没後も含めて三回、独立展に出品したという記述があるが、正確には四回の出品である。P13に、最後の独立展出品作のタイトルが「馬」と記されているが、「乗馬」が正しい。 |
B-M4MT-1976-001 | 青春のうた 白石高校 | 毎日新聞仙台支局編 | 1976 | 毎日新聞仙台支局 | P121-124『芸術への道②』にて、宮城四郎が、P124-127『芸術への道③』にて、宮城輝夫が、それぞれ高校時代のエピソードと共に紹介されている。『城山運動会②」中、P88にも学年対抗リレーの結果に抗議した四年生の一人として四郎の名が挙げらている。他、小室達、平井弥太郎、大泉茂基らが取り上げられている。当ウェブサイトのテーマから外れた余談になるが、白石高校出身の宍戸錠のエピソードも面白い。 |
E-M4MT-1981-001 | 「所蔵作品展 みやぎの美術」図録 | 宮城県美術館編 | 1981 | 宮城県美術館 | 宮城県美術館開館記念に開催された同展図録。P81に宮城輝夫『月の番人』モノクロ図版掲載。「解説」と題した文中、P103に宮城輝夫への簡潔な言及あり。出品目録中、P107に『月の番人』の簡単な説明掲載。P125、「宮城県美術関係年表(1876~1942)」の1941(昭和16)年に「松田春雄、宮城四郎、上田耕作ら独立展入選者により東北独立美術協会が結成される。」と記載あり。 |
B-VA-1985-001 | 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み | 成瀬忠行 | 1985 | 成瀬忠行 | P10「宮城県洋画人物故作家一覧(明治・大正・昭和」に「加藤正衛 平和の願い(油)」、「狭間二郎 カット」、「樋口加六 白馬岳(油)」、「宮城四郎」の記載、P42に加藤正衛の略歴と「平和への願い」モノクロ図版掲載。P43に上田耕作による随筆的な文章「加藤正衛君のことども」掲載。文中には「宮城輝夫君を中心に新鋭の若者達を一丸として誕生したエスプリヌーボーにも参加して」との記載もある。P47に狭間二郎の略歴と、何かの挿絵の再録であろうか、「カット」とキャプションの入った絵のモノクロ図版掲載。P48に樋口加六の略歴、「白馬岳」モノクロ図版、元仙台市長の島野武が「個展案内状」に寄せた短い文章「樋口画伯と私」掲載。その文中では、「大正9年の元旦、彼と一緒に仙台から裸のマラソンで塩釜神社の元旦詣り」したことが記されている。P56に宮城四郎の略歴掲載。「昭和2年弘前高校入学」と記載されているが、昭和3年が正しい。「昭和10年独立美術展初入選」とあるが、昭和12年が正しい。P65に樋口加六が中島哲郎の昭和45年の個展に寄せたのであろう短い文章掲載。P75からの「宮城美術年表」では、P77の昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。P80からの「2.宮城県連合美術展について」では、P82の「第3回展 1958年(昭和33年)」と「第4回展 1959年(昭和34年)」の「参加グループ」に「エスプリ・ヌウボオ」の名前が見える。P89からの「宮城県芸術協会絵画部記録」の「洋画の部」では、「第1回宮城県芸術祭選抜美術展」の審査員に狭間二郎の、「宮城県芸術協会委員展」の「出品者」に二宮不二麿と加瀬正衛(加藤正衛の誤記であろう)の、「第4回宮城県春の芸術祭絵画展」の審査員に二宮不二麿と加藤正衛の、「第8回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に加藤正衛の、「第10回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に二宮不二麿の、それぞれの名前がある。P112、「河北美術展顧問招待委嘱作家(60.現在)」の「洋画」に「招待 宮城輝夫」の記載あり。P114からの「宮城県内各種団体会員名簿(59.現在)」では、P119で「オブジェ・パーティⅡ」に石川舜、大嶋貴明、高山登の名前がある。 |
B-M4MT-1986-001 | エロスと創造のあいだ 22人の美術家との対話 | ヨシダ・ヨシエ | 1986 | 展転社 | 美術評論家のヨシダ・ヨシエと宮城輝夫の対談『宮城輝夫 暗闇に変化する植物・器官・人間』収録。川端画学校入学時からの様々なエピソード、戦前に携わった芸術活動、制作方法や考えにいたるまで、幅広く輝夫が語っている。また、ヨシダの「たしか戦前、左翼運動にもかかわっておられたとか?」という質問に対し、「いや、僕のすぐ上の兄のことです。左翼関係の本をよく読んでいて、刑事がきたりしました。」と四郎についての簡単な言及もある。 |
B-VA-1986-001 | 河北美術展50回記念宮城県美術館開館5周年記念河北美術展半世紀の歩み | 宮城県美術館・河北新報社編 | 1986 | 河北新報社 | P59に1974年の第38回河北美術展で文部大臣賞を受賞した大嶋貴明『Landscape'1984'』のカラー図版掲載。佐藤明による文章『河北美術展のはじめの頃』中、P63に宮城輝夫、上田朗、佐々木正芳への言及がある。塩田長和による文章『河北美術展に生きる』中、P66に狭間二郎への言及がある。酒井哲朗による文章『河北美術展50回記念に寄せて』中、P70に狭間二郎の発言の引用がある。P85に大嶋貴明の略歴掲載。年表中、それぞれ以下の記載あり。P90の1932(昭和7)年6月、「第1回蒼穹会洋画展,宮城四郎,小高根二郎,安田豊ら。勝本,児島の東北大教授らも特別出品(旧明治製菓 4~6日)」。P92において、第5回東北美術展の開催期間が「5月5日~14日」と記載されているが、当初の予定よりも開催期間が延長されたため、「5月5日~16日」が正しい。P100の1953(昭和28)年9月、「第1会エスプリ・ヌウボオ展(仙台市公会堂 19~23日)」。同ページ、1954(昭和29)年7月、「エスプリ・ヌウボオ第2回展(丸光 6~11日)1日付で機関紙発行」。P107の1964(昭和39)年9月、「仙台アンデパンダン展(三越 29~10/12日」。P112の河北美術展第33回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市教委賞「作品」翁 恵美(仙台)」。P113の河北美術展第34回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台美術館賞「女の首」翁 譲(東京)」。P114、河北美術展第35回展について「■本年から新たに下記の諸氏が招待作家に推せんされた。日本画 能島康明,洋画 宮城輝夫,彫刻 土屋瑞穂」。P116の河北美術展第37回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市美術館賞「ヤエ」翁 恵美(仙台)」。P117の河北美術展第38回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「一力次郎賞「赤いセーター」翁 恵美(仙台)」。また、同展について「■本年から彫刻の翁観二氏が招待作家に推せんされた。」。同ページ、1974(昭和49)年5月に、「宮城四郎,宮城輝夫絵画展(白石図書館 25~29日)同館の開館記念展」。P118の河北美術展第39回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「河北賞「クロッキーブック」翁 恵美(仙台)」。P119の河北美術展第40回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「宮城県芸協賞「回想」翁 恵美(仙台)」。P123、河北美術展第44回展について「■本年の特別賞は日本画小野恬氏,洋画宮城輝夫氏が受賞した。」。P126、河北美術展第47回展について、顧問に推薦された中の一人として、翁観二の名が挙がっている。「河北展入賞・入選者名」に、以下の名前が見える。P130、第1回に「小高根二郎(仙台)」、第2回に「宮城四郎(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第3回に「吉見庄助(東京)」、「宮城四郎(仙台)」、「宮城輝夫(東京)」、第4回に「狭間二郎(宮城)」、第5回に「狭間二郎(仙台)」、「宮城四郎(仙台)」。P131、第6回に「宮城輝夫(東京)」、第7回に「宮城輝夫(宮城)」、第10回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第11回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」。P132、第12回に「加藤正衛(宮城)」、第13回に「加藤正衛(宮城)」、第14回に「加藤正衛(仙台)」、「針生鎮郎(仙台)」。P133、第15回に「宮城輝夫(白石)」、「針生鎮郎(仙台)」、第16回に「宮城輝夫(白石)」、「佐々木正芳(仙台)」、第17回に「狭間二郎(仙台)」、「糸井貫二(仙台)」。P135、第23回に「石川舜(仙台)」、第24回に「石川舜(仙台)」、「加藤正衛(仙台)」、第25回に「村上善男(盛岡)」、「石川舜(仙台)」、P136、第26回に「新国誠一(仙台)」、第28回に「石川舜(仙台)」、「永寿慎一(仙台)」、「鈴木光一(宮城)」。P137、第29回に「永寿慎一(仙台)」、「石川舜(仙台)」。P138、第33回に「翁ひろみ(仙台)」、第34回に「翁譲(東京)」、「翁恵美(仙台)」。P139、第35回に「翁恵美(仙台)」、第36回に「翁譲(東京)」、「翁ひろみ(仙台)」、第37回に「翁恵美(仙台)」。P140、第38回に「大嶋貴明(仙台)」、「翁恵美(仙台)」、第39回に「翁恵美(仙台)」、第40回に「翁恵美(仙台)」。P141、第41回に「翁恵美(仙台)」。「出品目録」、P147に大嶋貴明『Landscape'1984'』の作品情報掲載。 |
B-M4MT-1987-001 | 美の旅―春・夏・秋・冬 | 宮城正俊 | 1987 | 宝文堂出版販売株式会社 | エッセイ『みやぎの近代美術 その回顧と展望』中、『河北美術展の歩み』の章中、P171で狭間二郎について、『宮城の生んだ彫刻家』の章中、P175において翁朝盛、翁観二、翁ひろみについて、それぞれ触れ、『明日への期待』の章中では、P176からP177にかけて、針生一郎、宮城輝夫、佐々木正芳、針生鎮郎、狭間二郎、樋口加六、宮城四郎についての言及がある。他、P142にも針生一郎の名前がある。P201からP203にかけて翁朝盛についての言及がある。 |
B-VA-1987-001 | 宮城県芸術年鑑昭和61年度 | 宮城県生活福祉部県民生活課編 | 1987 | 宮城県 | 「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P38に「もうひとつ、宮城県美術館の特集展示に県出身の「独立美術の三人」が取り上げられた。狭間二郎、樋口加六、宮城四郎の三人であるが、この世代の画家たちの油絵というものを信じ切った誠実な表現が人の心を打ち、とりわけ宮城四郎の才気溢れる作品に接して、その早世が惜しまれてならない。」という文がある。他、P38に針生鎮郎の、P38からP39にかけて宮城輝夫「風景の中の不随意筋的な風景」展の、P40に高山登、佐々木正芳の、それぞれ個展評がある。P40、ホンダ・クリオギャラリーの方針転換に言及する中で、過去に同ギャラリーにおいて「内容のある個展」を開いた者として石川舜、太嶋貴明の名前が挙がる。P44に針生鎮郎「ドボン・オロチ(A)」、P45に佐々木正芳「昼さがり」のモノクロ図版がそれぞれ掲載されている。「各ジャンルの動向」の土屋瑞穂(当時宮城県美術館学芸部長 ※なお、P50では「土屋端穂」と名前が誤記されている)による「彫刻」の章においてP47に、1986年に急逝した井手則雄についての言及あり。 |
F-M4-1987-001 | 宮城県美術館特集展示『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』パンフレット | 宮城県美術館編 | 1987 | 宮城県美術館 | 1987年1月6日から2月15日に開催された宮城県美術館の特集展示『独立美術の3人』パンフレット。A3両面印刷。狭間二郎・樋口加六・宮城四郎についての紹介文と出品作一覧、年譜を掲載。以下、宮城四郎の年譜について指摘と補足。「1926(大正15) 白石中学を卒業」とあるが、1927(昭和2)年が正しい。「1927(昭和2) 弘前高校に入学」とあるが、1928(昭和3)年が正しい。「1928(昭和3) 病気のため弘前高校を中退」とあるが、1929(昭和4)年が正しい。「1932(昭和7) 東北大学文学部美学研究室の聴講生となる」とあるが、1935(昭和10)年が正しい。また、「東北大学」よりも「東北帝国大学」がより正確な表記である。四郎が出品した第2回から第5回の東北美術展を「河北展」と記載しているが、「東北美術展」が正しい。1936年、第4回河北展出品作『習作」の正確なタイトルは他資料によると、『習作(静物)』である。 |
N-M4-1987-001 | 河北新報昭和62年1月16日夕刊 | ‐ | 1987 | 河北新報社 | 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。7面「憩いこい」欄に、同特集展示の紹介記事「みやぎの生んだ独立美術の3人~狭間二郎・樋口加六・宮城四郎~」が掲載されている。当時宮城県美術館学芸員の原田敦子による記事。独立美術協会の説明と特集する3人の略歴が記されている。展示において、現在所在不明の宮城四郎作品「母子像」の「写真パネルも併せて紹介されている」ことが書かれている。 |
N-M4-1987-002 | 河北新報昭和62年1月23日夕刊 | ‐ | 1987 | 河北新報社 | 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。 |
B-M4MT-1991-001 | 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み'91続 | 成瀬忠行 | 1991 | 成瀬忠行 | 画家の没年一覧に「宮城四郎 昭和16年 33歳」の記載、P12に二宮不二麿の、P13に東北学院高校で針生鎮郎や石川舜を教えた粟野耿介の、P46に佐藤明の、略歴がそれぞれ掲載されている。P59の年表では、昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。続くP60で、昭和39年に「仙台アンデパンダン展開催~宮城輝夫」の記載あり。P65の「河北美術展顧問・招待・委嘱作家(平成2年現在)」の「洋画の部」に「顧問 宮城輝夫(仙台市)」の記載あり。 |
B-VA-1991-001 | 宮城県芸術年鑑平成2年度 | 宮城県生活福祉部文化振興室編 | 1991 | 宮城県生活福祉部文化振興室 | 特集一『宮城県芸術年鑑を通して見た本県の芸術二十年』の宮城正俊『「年鑑」による回顧と展望』中、P11からP12に佐々木正芳について、P15に翁ひろみについて、それぞれ言及あり。同特集の小野昌和『精神的な豊かさを求めて』中、P20に宮城県芸術選奨の第一回受賞者として、佐々木正芳、佐藤鬼房らの名前が挙げられる。特集二『宮城県における戦後四半世紀の文化活動史』の西村勇晴『シリーズ(その十一)洋画』中、『河北美術展と新東北美術展』の章において、P36に新東北美術展の第十回展と併催した「明治以後物故作家遺作展」に宮城四郎の作品が展示されたことが記されている。また、同ページでは、新東北美術展の洋画の部の委員を務めた「これから長く本県の美術活動をリードしていくことになる人々」として狭間二郎、宮城輝夫らの名前が挙げられている。『各地の活動』の章においては、P39に狭間二郎が「仙台独立美術会を再結成」したことについて、P40に宮城輝夫と吉見庄助が1948年に「白石造型美術展」を創立し、1950年には「東北造型美術展」と改名して「地域をこえた活動」を行ったことについて、それぞれ記載されている。P43からP47の『エスプリ・ヌウボオ』の章においては、同グループの活動が記載され、佐藤英哉、宮城輝夫、加藤正衛、吉見庄助、昆野勝、狭間二郎、上田朗、佐々木あゆみ、佐々木正芳、新国誠一らの名前が現れる。P47からP48の『東北現代美術連合展』の章においては、吉見庄助、宮城輝夫、清野恒・克己兄弟、狭間二郎、ヨシダ・ヨシエ、昆野勝、岡本信治郎、佐々木正芳、佐々木あゆみ、上田朗らの名前が現れる。P51からP53の『仙台アンデパンダン』の章においては、宮城輝夫、佐々木正芳、上田朗、加藤正衛、針生鎮郎、田辺和郎、石川舜、村上善男、松沢宥、小野忠弘、岡本信治郎、池田龍雄、豊島弘尚、糸井貫二、鈴木光一らの名前が現れる。P54の『おわりに』においては、宮城輝夫、佐々木正芳、佐々木あゆみ、吉見庄助らへの協力に対する謝辞が述べられている。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P77に「宮城輝夫の「陽炎狩り」と題する個展は、ガラス絵など新作五十二点の展観であったが、この画家特有の明快な神話的イメージの世界が存分に展開されていた。」という文がある。また、田辺和郎の個展についての言及もある。P77からP78にかけて、石川舜が東京の田村画廊において開催した個展「バルゼア(堆積原)未明―歪みの系譜」への言及がある。P78からP79にかけて、宮城県宮崎町(現加美町)で開催された「1990夏・宮崎町美術展」における石川舜の「パフォーマンスと関連した一種のライト・アート」についての言及がある。P83に石川舜「バルゼア」のモノクロ図版掲載。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「彫刻」の章において、P88に高山登、翁譲への言及がある。P90に高山登「インスタレーション」(宮城県美術館中庭)のモノクロ写真掲載。 |
B-VA-1991-002 | 続仙台画人伝 | 大林昭雄 | 1991 | ギャラリー大林 | P163に宮城四郎の略歴が掲載されている。ただし、「昭和二年 弘前高校中退。」とあるが、昭和4年が正しい。「昭和十年 独立美術展初入選以降三回入選。」とあるが、初入選は昭和12年であり、没後も入れると入選回数は4回である。「昭和十六年 新東北展「物故作家展」に乗馬が出品されている。」とあるが、昭和三十年が正しい。没年が「不詳」とされているが、昭和16年である。P166に加藤正衛の略歴掲載。また、P178に二宮不二麿、粟野耿介の略歴掲載。粟野耿介の項には「上田耕作先生のお話によると、門下生に中央画壇で活躍した針生とか、在仙画壇の石川俊などがいる」とあるが、上田はそれぞれ針生鎮郎 、石川舜を指して語ったのだろう。また、上田が(粟野は)「昭和十年頃に没したのではないだろうか」と話したとのことだが、これは「昭和六十年頃」の聞き間違いだろうか。他、P208に「第六回東北美術展」(昭和16年)の出品者の一人として宮城輝夫の名前が挙げられている。 |
B-M4MT-1994-001 | 自伝 弛みなき道程 | 吉見庄助 | 1994 | 吉見庄助 | 「第三章 青春時代 希望―栄誉―苦杯」において、「川端画学校時代(第一次東京時代)」の「入隊準備の為の帰郷」のP83に、「白石に於ける、洋画グループそして洋画展の始まり」である「無名会」のメンバーとして宮城四郎の名前が挙げられる。同ページに掲載されている集合写真のキャプションには、「不佐 宮城」とあるが、これは「不在」の誤記であろう。同じく第三章、「帰休除隊・苦難の時代(第二次東京時代)」の「白石の生活」のP125に、「当時中学生として美術活動に熱心だった宮城輝夫君」らに川端画学校で知り合った友人の「Y君」を紹介したことが記されている。「第八章 定年退職」において、「三島学園二十年の私の芸術活動」のP417に、「昭和四十九年五月」に発行された『宮城四郎・宮城輝夫の人と芸術』を吉見が記した経緯が簡潔に記されている。P417からP418にかけて、東京銀座ギャラリーで昭和50年7月に開催された『七六吉見庄助展』の紹介文『吉見庄助展に期待するもの』が転載されている。当時東京都美術館学芸部長だった朝日晃による同文中、P418に「…東北の地で「エスプリ・ヌーボー」の旗揚げに参加している。その周辺には宮城輝夫の名もある。」という記載がある。また、同ページには、(朝日が)吉見庄助のことを「村上善男をとおして知った」という記載もある。 |
B-M4MT-1996-001 | 仙台市史 特別編3 美術工芸 | 仙台市史編さん委員会編 | 1996 | 仙台市 | 3章『近代・現代』の『一.仙台の近代絵画・彫刻』の『5.昭和』を宮城県美術館副館長を務めた西村勇晴が執筆。この文中、P351、P355で宮城四郎、宮城輝夫に触れている。P355において、宮城輝夫の「弟の宮城四郎」と記載されているが、宮城四郎は宮城輝夫の兄である。同ページには、宮城四郎『氷原』、宮城輝夫『踊り子』のカラー図版が小さく掲載されている。巻末『掲載資料一覧』のP574に簡単な図版の説明あり。 |
B-VA-1999-001 | 宮城県芸術年鑑平成10年度 | 宮城県環境生活部生活・文化課編 | 1999 | 宮城県環境生活部生活・文化課 | 「特集この人にきく(その二)」というインタビュー企画のうちの一つとして、P12-18に当時宮城県美術館学芸部長の西村勇晴が聞き手を務めたインタビュー「宮城輝夫氏にきく」が掲載されている。写真、映画上映、俳句等、絵画制作に留まらず、戦前からの多岐にわたる表現活動について語っている。また、川口軌外、瀧口修造、吉見庄助、佐藤英哉ら関わってきた表現者たちへの言及も多い。インタビュー中、P12において「六人兄妹だけど、生き残っているのは僕と妹だけになってしまったね。絵を描かないのは一人もいないです。中でも、俺のすぐ上の四郎兄貴が非常に絵が好きでね。俺に「お前絵描きになれ、一生俺が面倒見るから」って。それでね、絵描きになることが決まったわけです。中学一、二年生ぐらいの時かな。」と宮城四郎に言及している。他、P17において、「糸井貫二に「仙台のアンデパンダンに参加してくれないか」っていったら、彼も「まってました」とばかりに大賛成で、参加してくれたんですよ。彼はね、イベンターっていうか、日本の草分けの人じゃないかなぁ。」と語っている。やはり西村勇晴による「各ジャンルの動向」の「洋画」の章では、P50に「宮城輝夫も二年ぶりに晩翠画廊に作品を並べ(二月十七日~三月八日)」と輝夫の個展について言及がある。他、P60に翁ひろみ、P99に佐藤鬼房の名前がある。 |
E-M4MT-2000-001 | 「TOHOKU/TOKYO 1925~1945」展図録 | 2000 | 読売新聞社、美術館連絡協議会 | 2000年2月26日から3月26日に板橋区立美術館にて開催された『シリーズ Art in Tokyo No.11 TOHOKU/TOKYO 1925~1945 相克のモダニズム』展図録。P10「図版」の中扉に、清野克巳、清野恒、狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の名前がある。P36に清野恒『大地の樹』の、P54に清野恒『山』の、P62に宮城四郎『風景』の、P67に清野克巳『作品No.1』の、P74に清野克巳『コラージュNo.1』の、P87に狭間二郎『東北の野』の、P99に宮城輝夫『踊り子』の、それぞれカラー図版掲載。尾﨑眞人『「親愛なる椎の若葉よ、君の光の幾部分かを僕に恵め」』中、P109とP110に清野恒について、P110に清野克巳について、それぞれ言及されている。「作家略歴」中、P117に吉見庄助の、P122に清野克巳、清野恒の、P127に狭間二郎の、P128に樋口加六の、P131に宮城四郎、宮城輝夫の、それぞれ略歴を掲載。宮城四郎の略歴に「1926 白石中学校卒業。」とあるが、1927年が正しい。「1927 旧制弘前高校入学」とあるが、1928年が正しい。「1928 病気のため同校中退」とあるが、1929年が正しい。「1930 弘前高等学校理科乙類に入学」とあるが、1927年が正しい。また、前述の「旧制弘前高校入学」と重複した記述である。「1932 東北大学文学部美学研究室聴講生として、阿部次郎のもとで美学を研究。」とあるが、1935年が正しい。「1934 第2回河北美術展(以後第3-5回展出品)」とあるが、「東北美術展」の表記が正しい。1942年に「故宮城四郎画伯遺作展(東北大学美術部〈採光会〉主催)」とあるが、これは「彩光会」の誤記である。宮城輝夫の略歴で1937に「前衛写真協会結成に参加し」、「主な個展、展覧会」にも「1937 新造形美術協会(名古屋)」と記載されているが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、同協会に宮城輝夫が参加したのは「1939年頃」とのことであり、検討が必要である。「作品リスト」中、P134に清野克巳、清野恒の、P135に狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の作品情報が、それぞれ掲載されている。 | |
N-M4MT-2002-001 | 河北新報平成14年1月25日 | ‐ | 2002 | 河北新報社 | 佐々木正芳による追悼文「宮城輝夫さんをしのんで」と宮城輝夫作品「エスキース135」(1982年)モノクロ図版掲載。佐々木が輝夫との思い出を語る。「白石の宮城医院に生まれた宮城さんは、兄の四郎さんの影響で画家を志し、」との記述がある。 |
B-M4MT-2003-001 | 狹間二郎のデッサンと木版画 | 菊地義彦編 | 2003 | 菊地義彦 | P46の木版画のキャプションが「塔のある風景(宮城四郎と共に油彩でも描いている)」となっている。P57『狭間二郎百年の記録 生誕百年記念「デッサン・木版画集」の資料として 菊地義彦』と題した文中、宮城県美術館で1987年に開催された企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』についての言及がある。また、年譜内では、それぞれ以下の記述がある。P65、1937年に「宮城四郎と独立展初入選を記念して、仙台市国分町の工芸社ギャラリーで「二人展」を開く。」と記されている。P66、1941年に開催されていた裸婦写生会「独立講習会」の参加者の一人として宮城輝夫が挙げられている。P79、1987年の企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』展の説明に「狭間二郎、樋口加六、宮城四郎、三氏の作品各二十点を展示。」の記述あり。 |
M-VA-2012-001 | S-meme04現代美術と地域 | 五十嵐太郎発行者、出原日向子、伊藤幹、大内まさ敏、大沼久美、川村亨太、筒井としい、斧澤未知子編集制作 | 2012 | せんだいスクール・オブ・デザイン | P72-75に、宮城四郎・輝夫兄弟の活動を中心に据えて、戦前から仙台アンデパンダン展までの宮城県の芸術活動の流れを大まかに追った、鈴木直樹「宮城県現代美術百年史[前編]」掲載。文中、吉見庄助、石川舜、針生鎮郎、加藤正衛、新國誠一、昆野勝、翁ひろみ、糸井貫二、鈴木光一、上條順次郎、鈴木征一、永寿慎一、豊島重之、橋本章らについて触れている。他、P44-47、梅森靖夫「カケスの森のカサ・ブランカ|中本誠司現代美術館が目指しているもの」に中本誠司現代美術館の今野純市館長へのインタビュー掲載。P48-51、森谷千夏「地域におけるギャラリーのあり方|仙台アンデパンダン展を通して」に「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催までの経緯と概要が記載されている。文中、P49の「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催の「背景」の説明において、「ゼロ次元の加藤好弘氏から関本氏に、「仙台で何かやりたい」という提案があったのと同時期に、SARPの青野氏が、ダダカン(糸井貫二)氏を絡めた展示を企画したいと考えていた。」、「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」という思いから、加藤氏とダダカン氏が「読売アンデパンダン」などを活動の場としていたことより「二〇一二・仙台アンデパンダン展」という発想に至った。」(「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」の部分の最初の鍵括弧がないのは原文ママ)という文がある。文中に出てくる「関本氏」、「青野氏」はそれぞれ、関本欣哉、青野文昭のこと。P66-71、田多知子「表出する表現|仙台の美術 2001-2012」が、青野文昭、大嶋貴昭、椎名勇仁らに触れている。 |
E-VA-2017-001 | コレクション再発見東北の作家たち|洋画/版画 | 宮城県美術館(菅野仁美、小檜山祐幹、和田浩一)編 | 2017 | 宮城県美術館 | 2017年4月29日から7月17日に宮城県美術館で開催された同展図録。P4の謝辞に、宮城輝夫の息子であり、工作舎アートディレクターの宮城安総や高山登の名前が見える。P15「第1章 東北のモダニズム」説明文内に狭間二郎、宮城四郎の名前が挙がる。P39に狭間二郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『東北の野』カラー図版掲載。P40に宮城四郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『風景』カラー図版掲載。しかし、作家解説の「1932(昭和7)年に東北大学文学部美学研究室の聴講生となり」という記載は1935(昭和10)年が正しい。P41に宮城輝夫の作家解説(菅野仁美筆)と『踊り子』カラー図版掲載。ただ、作家解説内に「1937年にはシュルレアリスム系の新造形美術協会や前衛写真協会に加わった。」とあるが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、前衛写真協会に宮城輝夫が参加したのは、「1939年頃」とのことで、検証が必要である。P43に村上善男の作家解説(菅野仁美筆)と『Polymerization-N-V(W)の場合、または腔内弾道学』カラー図版掲載。P45「第2章 版画と東北」説明文内に高山登の名前が挙がる。P66に高山登の作家解説(小檜山祐幹筆)と『サンライズサンセットD-1』、『サンライズサンセットD-2』、『サンライズサンセットD-3』カラー図版掲載。P67「第3章 8人の作家」説明文内に宮城輝夫、高山登の名前が挙がる。P74、菅野聖子の作家解説(和田浩一筆)内に「仙台出身でコンクリート・ポエトリーの詩人、新國誠一が主宰するASA(芸術研究協会)にも参加した(1966年退会)」との記述がある。P78,79に高山登の作家解説(和田浩一筆)と『首のない風景』、『のっぺらぼう1』、『のっぺらぼう2』、『のっぺらぼうA』カラー図版掲載。P80,81に宮城輝夫の作家解説(和田浩一筆)と『毛の目の漢たち』、『月の番人』、『陣営(夜ごとの夜シリーズ)』カラー図版掲載。P84-87にそれぞれの作品リスト掲載。 |