M-IKMT-1996-001 |
Quick Japanクイック・ジャパンVOL.6 |
赤田祐一編集発行人、村上清編集 |
1996 |
太田出版 |
P133-147に竹熊健太郎『竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道前編』掲載。竹熊が雑誌や新聞、書籍を通して知った糸井貫二の情報と、「Kという男」から聞いた糸井が美術展に出品した作品の話を記している。しかし、「糸井貫二(ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)によると、P140に掲載されている「Kという男」が観た作品について上原誠一郎が糸井本人に確認したところ、糸井がそのような作品を出品した事実はないとのこと。他、糸井について語る宮城輝夫、水上旬へのインタビューをそれぞれ収録している。輝夫のインタビュー中で、P142に宮城が勤めていた大学名が「三島大学」となっているが、正式な名称は「三島学園女子大学」。また、同ページにおいて輝夫が「よくダダカンも大学にフラッと現れて「儀式」をやっていったんですね」と語っているが、生前筆者が糸井に確認したところ、糸井は三島学園女子大学には一度も行ったことがないそうで、首を傾げていた。その後に続けて、三島学園女子大学の学生による、来場者が皆、蜘蛛の巣に絡み取られるパフォーマンスが面白かった(前述の管理番号O-VA-2008-001の資料8ページ目、1969年1月2日にも「三島女子美生二名によるくもの巣ハプニング観客、出席者全員からみとられる」と記載あり)と思い出を語っていたため、輝夫が、大学の学生の展示会等と言いたかったのを言い誤ったか、竹熊の聞き間違いの可能性がある。前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、P143に掲載されている「ダダカン師から芸術家水上旬氏に宛てて郵送されたメールアート」のうち、③は糸井作ではなく、石川舜の作品であるとのこと。 |
M-VA-1996-001 |
Quick Japanクイック・ジャパンVOL.7 |
赤田祐一編集発行人、村上清編集 |
1996 |
太田出版 |
P4に赤い貫頭衣を着て歩く(走る?)糸井のカラー写真が掲載されている。この写真に「pic:羽永光利」とキャプションが付いているが、この写真は羽永光利が撮影したものではない(黒ダライ児「肉体のアナーキズム」P15に掲載された同写真のキャプションでは、「撮影者不明」となっている)。P169-192に竹熊健太郎『竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道後編』掲載。竹熊と糸井の手紙のやり取り、竹熊と編集者の赤田祐一が糸井の自宅を訪問して行ったインタビューの内容が記されている。また、豊島重之へのインタビューと「ダダカン儀式年譜」が掲載されている。豊島はインタビューで仙台西公園野外アートフェスティバルについて触れており、「石川舜という画家がいまして、彼が若手中心の「仙台野外展」を開催するというので、市内のあちこちに看板を立てたわけですよ。」と語っている。以下、P180-181の「ダダカン儀式年譜」への指摘。1932年の記載「成城中学に入学。」は「糸井貫二(ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)および「ナラティブの修復」(管理番号:B-VA-2022-001)によると1933年である。1944年の記載「軍の命令で九州で炭鉱夫や戦車隊の補充兵として働く。」は1945年が正しい。1951年の記載「三月 第三回読売アンデパンダン展に初出品。「彩色した卵のオブゼ」。」は「第三回日本アンデパンダン展」が正しい。また、開催期間は2月27日から3月18日であり、出品作の正式名称は「たまご」である。1958年に「三月 第一〇回読売アンデパンダン展「ガラス絵の版画・箱」」と記載されているが、この時の出品作は「無動」、「無位」(以上、絵画の部)、「菩薩」、「ぶどうと子供」、「芽」(以上、版画の部)、「放射能」、「宇宙人」(以上、彫刻の部)。1959年に「三月 第一一回読売アンデパンダン展「鳩舎」」と記載されているが、この時の出品作は「非常」(以上、絵画の部)、「パートタイマーのうた」(以上、版画の部)、「鳩飼いし頃」(以上、彫刻の部)。1960年に「三月 第一二回読売アンデパンダン展「ネハン堕堕」他。」と記載されているが、この時の出品作は「涅槃達陀」、「障子」、「えだ」(以上、絵画の部)、「阿字観」、「「行動だ」」、「間」(以上、彫刻の部)。1961年に「一二月 第一三回読売アンデパンダン展「出た!ビートニックが」「ダダカン宣言」」と記載されているが、「三月」が正しい。また、この時の出品作は「ダダッ子貫ちゃん」、「作品-3」(以上、絵画)、「個展」(以上、彫刻)。1962年に「英雄たちの大集会」開催地が「百地海岸」と表記されているが、「百道」が正しい。1963年に「三月 第一五回読売アンデパンダン展「ダダカンの鞄」。」と記載されているが、この時の出品作は「ダダカンの鞄」と「43才になつた一匹狼」。1964年に「九月 仙台アンデパンダン展に「メット」出品」と記載されているが、出品作の正式名称は「ゼロの男」である。1966年に「八月 大徳寺参禅管長とホモ問答(京都・烏丸通)。」と記されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、上原誠一郎が糸井本人に確認したところ、この事実はないとのことである。1967年に糸井がパフォーマンスを行った場所として、「新宿西口フーテン広場」と表記されているが、「東口」が正しい。1970年に「四月 「手配犯人風全裸逃げ」(大分県中津駅前。指名手配中の犯人にダダカンが誤認され、警官から裸で逃げ回る)。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、「全裸」ではなかったとのことである。1971年に「四月 豊島重之演出の映画『高野聖』に出演。」と記載されているが、前述の管理番号B-VA-2022-001の資料によると、これは1970年12月のことである。1971年に「長年親戚の家で病に伏せていた母親の処遇につき、「もし病母の意思に反して強制入院させるのであれば医療費の送金を打ち切り、手持ちの全財産を焼却する」と親戚に通告。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、この事実はないとのことである。1971年に「九月 「一千万円焼却儀式スタート」スタート。妹宛てに半焼けの一万円札五枚送付。芸術家さいとうよしあき氏に焼札五万円。同じく水上旬氏に焼札五万円。親戚が詫びを入れ儀式中止。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、「水上旬氏に焼札五万円。の部分以外はこの事実なし」とのことである。しかし、前述の管理番号B-VA-2022-001の資料では、略年譜中、P157に「9月 《一千万円焼却儀式》を開始。さいとうよしあき、水上旬に半焼札5万円を送る。」と記載されている。他、読者からの手紙掲載コーナー「LETTERS」P199に、前号の糸井についての記事の感想を書いた手紙が2通掲載されている。そのうち1通の内容は以下のとおり。「(前略)ダダカン氏の記事には感じ入りました。記事中の仙台在住の宮城輝夫氏は、私の記憶が正しければ、私の実家の近所にいらした方ではないでしょうか?地元では、KENZOというケーキ屋さんのイラスト描いてたりしたと思うんですが……。ちょっとなつかしい。」 |
B-IK-1998-001 |
日本・現代・美術 |
椹木野衣 |
1998 |
新潮社 |
「第六章バリケードのなかのポストモダン」のP133-38に高山登への言及がある。P173-198、「第八章裸のテロリストたち」において、日本の裸体芸術の思想や、日本へのダダの導入と禅への関係性を論じる中で、糸井貫二を大きく取り上げている。註のP365の[50]、P367の[55]にも糸井への言及がある。 |
B-VA-1998-001 |
箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝 |
竹熊健太郎編著、北尾修一編 |
1998 |
太田出版 |
「Quick Japanクイック・ジャパンVOL.6」(管理番号:M-IKMT-1996-001)、「Quick Japanクイック・ジャパンVOL.7」(管理番号:M-VA-1996-001)に連載された『竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道』を改稿した「糸井貫二ダダの細道」掲載。雑誌掲載時からの大きな変更は以下。「「お金」の想い出」の章が追記されている。宮城輝夫、水上旬の談話の前後に文章が追記されている。「ダダカン儀式年譜」は再録されていない。また、掲載写真点数も少なくなっている。「『クイック・ジャパン』と『箆棒な人々』(あとがき)」の中でも、P339、P350に、糸井への言及がある。 |
M-IK-1998-001 |
Quick Japanクイック・ジャパンVOL.21 |
村上清編集人、大塚幸代、大久保保太郎編 |
1998 |
太田出版 |
P10-11に竹熊健太郎『幻の裸体行動芸術家・ダダカン再訪記その1』掲載。竹熊が「クイック・ジャパン」VOL6とVOL7に掲載した糸井記事の要約と、再訪にいたるまでの竹熊と糸井の手紙のやり取り、糸井宅の玄関のドアを開けるまでが記されている。P122-123に、竹熊健太郎『幻の裸体行動芸術家・ダダカン再訪記その2』掲載。糸井が竹熊と赤田祐一の前で、裸の三点倒立パフォーマンスを行い、京都の息子に会いに行ったエピソード等を語る様子が記されている。三点倒立パフォーマンスを行う様子のカラー写真が掲載されている。P124に、竹熊健太郎『戦後サブカルチャー偉人伝箆棒な人々』のカラー広告掲載。ここにも、裸でポーズをとる糸井のカラー写真と簡単なプロフィールが掲載されている。 |
M-IK-1998-002 |
波1998年1月号(通巻第337号) |
‐ |
1998 |
新潮社 |
針生一郎の書評「『日本・現代・美術』を読む。」のP35に、椹木野衣『日本・現代・美術』の内容に関して、「こうして、九〇年代では抽象日本画と平行的にアニメ風少女を「再現」する村上隆、木製の牛乳箱を画廊にみたて、他人に使用をゆだねた上で街頭に配置する小沢剛ら、八〇年代では森村泰昌、原口典之、高山登ら、七〇年代では「美共闘」「もの派」と糸井貫二、「ゼロ次元」などの反博パフォーマンス、六〇年代では赤瀬川源平の千円札裁判がとりあげられる。」という文がある。 |
B-IK-1999-001 |
毎日ムック シリーズ20世紀の記憶連合赤軍・“狼”たちの時代1969-1975 |
西井一夫編集長 |
1999 |
毎日新聞社 |
「大阪万博」のP100に掲載された8枚の写真のうち1枚は、万博会場で警官に連行される糸井貫二の写真。「「太陽の塔」下でストリーキングを敢行、捕まった男、まさしくそこは広場だった…1970年」とキャプションが付されている。 |
B-IK-1999-002 |
アヴァンギャルド60’s |
吉岡康弘 |
1999 |
新潮社 |
『六〇年代・覚え書』の「読売アンデパンダン展の終焉」の章のP195に、糸井貫二が1962年の第14回読売アンデパンダン展に出展して撤去された作品「自家発電」のモノクロ写真が掲載され、「左=糸井寛二(ダダカン)」というキャプションが付されている。実際は同ページの左側に篠原有司男が作品と共に写る写真が掲載されており、糸井の作品は右側に掲載されているが、キャプションの左右の表記は逆になっている。第14回アンデパンダン展について記された同章のP196で、撤去作品が「会場の隅へ隠し込まれていた」光景の描写中、「そこには初日に撤去された糸井寛二の皮鞄と覗き箱、自慰に耽るお姫様のコラージュ作品も置かれていた。」という一文がある。『六〇年代・覚え書』の「大阪万博と岡本太郎」の章のP284に、岡本太郎への批判に続けて「赤ヘルの青年が『太陽の塔』を占拠したのだ。糸井寛二はその回りをふりちんで疾走していた。儀式屋はどっこい生きていたのである。」と記載されている。なお、本書において糸井の名前は3箇所とも「寛二」と誤記されている。なお、本書は永寿日郎によって企画されたものである。 |
B-VA-1999-001 |
宮城県芸術年鑑平成10年度 |
宮城県環境生活部生活・文化課編 |
1999 |
宮城県環境生活部生活・文化課 |
宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1999-001参照。 |
B-IK-2002-001 |
泡沫桀人列伝知られざる超前衛 |
秋山祐徳太子 |
2002 |
二玄社 |
P15-17に「裸の鈴鳴り神社“狂気なる紳士”上條順次郎氏の巻」、P22-25に「発狂の夜皇帝“ゴールデン街の泉”永寿日朗氏の巻」、P105-108に「汚物芸術家“その後は名門料亭板前長升沢金平氏の巻」、P171-174に「酔犬芸術家“酔犬彫刻の無頼派”吉野辰海氏の巻」、P197-200に「ダダ・カン“タンポポの神”イトイ・カンジ氏の巻」というエッセイがそれぞれ掲載されている。上條順次郎の章ではP17に「イトイ・カンジ」の名が現れる。イトイの章は、秋山による「通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい」(管理番号B-IK-1985-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料2(1973-1995年発行/発表分)ページ参照)の書籍と記載内容がかなり重複する。P200には、加藤好弘の個展に糸井から「饅頭が沢山届けられた」と記載されているが、添えられた写真に写っているのは、簡易包装の「萩の月」である。「ゼロ次元総帥“芸術テロとタントラ”加藤好弘氏の巻」のP205に上條順次郎の名前が現れる。 |
M-IK-2003-001 |
現代思想第31巻第2号2003年2月号特集=『帝国』を読む |
池上善彦編集人 |
2003 |
青土社 |
「特集=『帝国』 を読む」のP154-167、小田昌教+ヲダマサノリ「見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗」において、「ムルチチュードの影を感じ、その影を慕いたくなるような人物」として、糸井貫二への言及が何度かある。P159に「七〇年代になると紙幣を焼却するということに没頭しはじめ、僅かな収入と極貧生活の中から捻出した金に火をつけ、焼け焦げたお札を作品としてあちこちに送りつけるようになった。」という記述があるが、誇張が入っている。「糸井貫二(ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)によると、水上旬以外には焼けたお札をお札を送っていないという糸井自身の証言がある。また、「ナラティブの修復」(管理番号:B-VA-2022-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料4(2022年以降発行/発表分)ページ参照)でも、略年譜中、P157にさいとうよしあき、水上旬に焼けたお札を送った事例が記載されているのみである。 |
B-IK-2004-001 |
空間の行間 |
磯崎新、福田和也 |
2004 |
筑摩書房 |
「第十二回「お祭り広場」と三島由紀夫」という章の「両方とも結果的に挫折した」というセンテンスにおいて、福田和也が「三島の突きつけたものが本当に何かを変えたかというと、変えたようにも見えない」(P309)、磯崎新が(三島由紀夫と岡本太郎の試みについて)「結果として両者は挫折したんだと思います」(P310)と批判した後、磯崎が以下のように語る。「ただ、三島由紀夫があれをどう見ただろうという事件が万博で起こった。ダダカンというパフォーマーが素っ裸で走った。なぜダダカンがあそこを走ったのかというと、ちょうど同じコースをオープニングで天皇が歩いたからだと僕は以前から思っているんです。「太陽の塔」の真っ黒の顔の前に天皇のロイヤルボックスがあって、僕のデメロボが来て煙を噴く。そこから小学生の鼓笛隊が飛び出て、花吹雪がぱっと降りる。この時の天皇のコースを、改めて走っている。日本共同体の天皇がいて、裸の男が走る。三島由紀夫はおそらく、ダダカン的なものに対する近さは持っていただろうと思うんだな。」。なお、「ダダカン」には以下の注釈が付いている。「前衛芸術家。本名糸井貫二。第三回読売アンデパンダン展に出品後、各地でハプニングを展開した。」 |
B-IK-2005-001 |
戦争と万博 |
椹木野衣 |
2005 |
美術出版社 |
P205-246に、「第七章ダダカンと"目玉の男"」掲載。糸井貫二の生涯と表現の軌跡を追い、その思想や性質を考察して日本の芸術史の中での位置づけを明らかにしようと試みる論考。P207に毎日新聞昭和45年4月27日夕刊の「太陽の塔"乗っ取り男"」についての記事抜粋の図版(糸井の全裸疾走についても簡潔に触れられている)、P209に「美術手帖1970年12月号」のP40から転載された糸井の写真と椹木のもとに送られてきた糸井のメールアート写真が掲載されている。「第六章そこにはいつも「石」があった」のP170とP173、「第八章万博と戦争」のP248にも「ダダカン」の名前が現れる。「註」のP313に、P170に初めて現れる「ダダカン」の言葉についての簡潔な説明あり。「註」のP319-326に第七章の註が掲載されている。P324に、糸井が六十年代初頭に陀田勘助を訪ねたというエピソードが紹介されているが、陀田勘助は1931年に没しているため、これはありえない。「主要参考文献」のP347に、「糸井貫二『手控』、自筆綴本、年代不詳」、「糸井貫二『行動記録』、自筆綴本、年代不詳」と記載あり。「参考図版クレジット」のP349にP207、P209に掲載された図版の情報掲載。なお、『糸井貫二(ダダカン)年譜・(家系図は別添付)』(管理番号:O-VA-2008-001)によると、P214に「ネハン堕堕」として説明されている作品は、実際は「阿字観」という作品であるとのこと。 |
B-IK-2005-002 |
超芸術 Art in Action 前衛芸術家たちの足跡1963-1969 The 1960s Avant-Garde Works and Profiles of Young Japanese Artist |
平田実 |
2005 |
三五館 |
平田実の写真集。P118-119に掲載された、1968年、クロハタ・グループの「由比忠之進・ベトナム反戦焼身自殺の「追悼儀式」」の写真の左側に写っているサングラスをかけて合掌している男は、おそらく糸井貫二である。 |
B-IK-2006-001 |
松岡正剛千夜千冊第6巻茶碗とピアノと山水屏風 |
松岡正剛 |
2006 |
求龍堂 |
「10 伝統と実験のあと」の「第四三夜 日本という悪い場所 椹木野衣 日本・現代・美術 新潮社 一九九八」のP1216に、松岡が「いっときよく話しこんだ」世代のアーティストとして高山登の名前が挙がっている。「第八一八夜 煎餅も万年筆も都知事選も 秋山祐徳太子 泡沫桀人列伝 二玄社 二〇〇二」において、P1229で上條順次郎に、P1230で永寿日朗に、P1231で糸井貫二について、それぞれ言及している。 |
B-IK-2006-002 |
ゼロ次元 加藤好弘と六十年代 |
平田実 |
2006 |
河出書房新社 |
平田実の写真集。企画は永寿日郎。平田実「「ゼロ次元」と加藤好弘の足跡1964-1970」のP5に「加藤好弘、岩田信市と周辺の仲間たち」として挙げられる人物たちの中に上條順次郎、糸井貫二の名前がある。加藤好弘「芸術テロリスト・ゼロ次元全裸尻蔵儀式派集団のアンダーグラウンド行進業(※注:「業」の上に「ヨーガ」とルビ)」のP7に「ワニザメを飛び越えてドロップアウトをめざす白うさぎの物語に出演しているのは、万博・太陽の塔から小便を流す同志の下を一人全裸で疾走した日本パフォーマンス界の天才「ダダカン」こと糸井貫二」、「ゼロ次元を十年支えた主役、上條順次郎」、「儀式をプロデュースし後期タントラ儀式をうけおう永寿日郎」、「奇想のパフォーマー、クロハタの松江カクとは浅草キャバレー「花電車」、メーデー広場での「奇脳舌サーカス見世物小屋大会」など毎年一回の狂気見本市儀式屋顔見世大会での秘芸狂演で思想闘争の内実身体をダダカンと共に鍛えあった」という記述がそれぞれある。P35に、1967年の「ベトナム反戦行進(由比追悼」に参加した糸井貫二が警察官と並んでいる写真が2枚掲載され、「追悼儀式に参加したダダカン(糸井貫二)が事情聴取をうける」というキャプションが付されている。P36-37に、『超芸術 Art in Action 前衛芸術家たちの足跡1963-1969 The 1960s Avant-Garde Works and Profiles of Young Japanese Artist』(管理番号:B-IK-2005-002)のP118-119に掲載されたのと同じ写真が掲載されている(糸井が写りこんでいる)。P40-41に、ベトナム反戦行進中のゼロ次元メンバーと糸井の写真が見開きで掲載されている。P97に映画「いなばの白うさぎ」撮影中で全裸の糸井、上條らの写真が掲載されており、「後列中央が糸井」とキャプションが付されていいる。P82、P88-91の写真に上條が写っている。、黒ダライ児「ゼロ次元とは何か」のP127にクロハタの「ベトナム反戦儀式」に「ゼロ次元と糸井貫二も参加」という記述がある。P128、「ゼロ次元・加藤好弘の軌跡」の「1967」に『奇脳舌サーカス見世物小屋大会』(代々木メーデー会場)、松江カク、糸井貫二も参加。」という説明がある。P130、映画「いなばの白うさぎ」の撮影現場で撮られた写真に、上條と永寿が写っている。(以上、ページ番号については、本書にページ番号が付されていないため、表1、表2を除いて仮にページ番号を付与して数えたものとなる。) |
B-IK-2007-001 |
ブリキ男 |
秋山祐徳太子 |
2007 |
晶文社 |
「6万博破壊共闘派の芸術蜂起」のP139-142に「ダダカンさんは万博の金メダリスト」という文章が掲載されており、糸井が万博会場を全裸で疾走したエピソード等が紹介されている。また、2006年に秋山が糸井の自宅を訪問した際の談笑中のモノクロ写真が掲載されている。秋山の著書「通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい」(管理番号:B-IK-1985-001)や「泡沫桀人列伝知られざる超前衛」(管理番号:B-IK-2002-001)の文章と内容はかなり重複する。他、P86とP247とP285に吉野辰海、P173に永寿日郎、P276に上條順次郎への言及がある。 |
B-VA-2007-001 |
箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝 |
竹熊健太郎 |
2007 |
河出書房新社 |
1998年に太田出版から発行された同名の書籍(管理番号:B-VA-1998-001)の文庫版。「その後の箆棒な人々(文庫版あとがき)」と本橋信宏による「解説」が追加されている。「その後の箆棒な人々(文庫版あとがき)」では、87歳を迎えた糸井の近況が報告されており、糸井と若者の交流や長男との再会について記されている。また、「解説」でも糸井についての言及がある。 |
E-IK-2008-001 |
寺山修司劇場美術館 |
寺山偏陸監修 |
2008 |
PARCO出版 |
2008年に青森県立美術館、郡山市立美術館で開催された「寺山修司 劇場美術館:1935~2008」展の図録。青森県立美術館学芸員の工藤健志による文章「寺山修司の現代性」のP2に、「いや、ひとり寺山のみならず当時活躍した多くの前衛芸術家たち、例えばゼロ次元、ダダカン、土方巽、唐十郎……、彼らは等しく「常識」から逸脱し、社会の禁忌をあえてとりあげ、根源的、本質的な人間の有り様を表現として問い続けていった。」という文がある。 |
F-IK-2008-001 |
「ダダカン2008糸井貫二・人と作品鬼放展」パンフレット |
‐ |
2008 |
Les ales de la terra |
銀座のギャラリーアーチストスペース(2008年9月8日~20日)と東高円寺のギャラリーPara GLOBE(2008年9月14日~27日)で開催された「鬼放展」(キュレーター:小坂真夕、鳥水亭木呂)と浅草木馬亭で2008年9月12日に開催された「ダダカンシンポジウム」のパンフレット。 |
M-IK-2008-001 |
美術手帖2008年12月号特集美術手帖60年史創刊60年記念特大号 |
美術手帖編集部 |
2008 |
美術出版社 |
「MAGAZINE IN MAGAZINE美術手帖の60年が一冊の雑誌として蘇る」のP172-173に「美術手帖1970年12月号のP40-41に掲載された糸井貫二の写真が再録されている。「REVIEWS」のP342にダダカン「鬼放展」の情報と展示作品のカラー図版が、P343に椹木野衣による同展評「色が行動を誘発するダダカンの紅い火照りと白い乾き」が、それぞれ掲載されている。 |
O-IK-2008-001 |
ダダカンさんと私 |
上原誠一郎 |
2008 |
上原誠一郎 |
A4用紙1ページ。2008年に開催された「ダダカン2008糸井貫二・人と作品鬼放展」の企画経緯が綴られた随筆的な文章。 |
O-IK-2008-002 |
ダダカンオブジェ論 ダダカンとデュシャンの「ポルノ小屋」 |
上原誠一郎 |
2008 |
上原誠一郎 |
デュシャンの作品と糸井貫二のオブジェ作品の類似性に言及し、ハプニングに注目が集まりがちな糸井のオブジェ作品について評価の再考を主張する論考。A4用紙3ページ。 |
O-IK-2008-003 |
ダダカン関連書誌 |
上原誠一郎 |
2008 |
上原誠一郎 |
A4用紙2ページ。鈴木所有のものは、2008年3月15日更新版。糸井への言及がある、もしくは糸井の文章や写真が掲載されている38点の書籍・雑誌のリスト。 |
O-VA-2008-001 |
糸井貫二(ダダカン)年譜・(家系図は別添付) |
上原誠一郎 |
2008 |
上原誠一郎 |
A4用紙14ページ。鈴木所有のものは、2008年3月15日更新版。P1~P11:年譜、P12:家系図、P13:「「この事実なし」あるいはそれに準ずる2008年3月1日の年譜訂正の本人記述」と題された、これまでに発刊された糸井貫二関連の雑誌や書籍の記述に関する訂正の指摘、P14:「ダダカン問答記」と題された、いくつかの糸井へのヒアリング内容を記した文章。P7の西公園アートフェスティバルの記述に石川舜の名前が、P8の「さいとうよしあき企画ハプニング展」の来場者として宮城輝夫の名前が、それぞれ現れる。 |
B-IK-2009-001 |
真景 イメージ |
田野倉康一 |
2009 |
思潮社 |
詩集。P16-21に掲載された詩「帰還」中、P18に、糸井貫二の行為に触発されて書かれた、以下の連がある。「劣化しないものは劣化する/殺すな/殺せ/百人のダダカンが駆け抜けてゆく/はだかの/太陽の塔/百メートルの銀座/ひんやりと風を切る/百人のはだかとなって/ぼくたちが走る/冬の墓域は空堀めいて奇妙に明るい/誰もぼくたちを知らない僕たちのイメージを/とりあえず駆け抜ける」 |
B-IK-2009-002 |
日本美術史ハンドブック |
辻惟雄、泉武夫編 |
2009 |
新書館 |
「近現代」の「大正・昭和・平成美術」の半田滋男「〔概説〕近代美術から現代美術へ」の「アンデパンダンと反芸術」のP169に、「七〇年前夜には名古屋の加藤好弘のパフォーマンス集団《ゼロ次元》、都知事選に行為として出馬した秋山祐徳太子、仙台のダダカン=糸井寛二など、「行為」を手段とする人々の過激な活動が目立っている」という記載がある。このページと「人名索引」のP216共に、糸井の名前は「寛二」と誤記されている。 |
E-VA-2009-001 |
「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」パンフレット |
大嶋貴明、三上満良、和田浩一/宮城県美術館学芸部 |
2009 |
宮城県美術館 |
2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展のパンフレット。加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二、新國誠一、佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の出品作品リストと略歴が掲載されている。 |
F-VA-2009-001 |
「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」フライヤー |
‐ |
2009 |
宮城県美術館 |
2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展のフライヤー。A4両面カラー。表面には、宮城輝夫の作品『有尾人(アルシブラ)』をトリミングして用いた企画展のビジュアルイメージと企画展の基本情報、加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二、新國誠一、佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前を掲載。裏面には、羽永光利による糸井貫二の「路上儀"殺すな"」写真他、8点の出展作品のカラー図版、説明文、企画展の関連事業情報等を掲載。 |
M-IKMT-2009-001 |
東北文化友の会会報『まんだら』第41号 |
赤坂憲雄、岸本誠司責任編集 |
2009 |
東北芸術工科大学東北文化研究センター |
P46-48に、小池浩一「特派員レポート1前衛のアイコン、ダダカン健在」掲載。糸井の住む鬼放舎を椎名雄仁と訪問した経緯や、椎名がパフォーマンス「殺す菜」を糸井の前で披露したこと等を記している。P48に、宮城県美術館で2009年に開催された「前衛のみやぎ」展において糸井の展示の「となりには宮城輝夫氏の作品があり、平成の時間を共有しているのがいい。」という記述がある。 |
M-VA-2009-001 |
仙台市市民文化事業団情報誌ARSEN[アルセン]2009.7vol.73 |
仙台市市民文化事業団編 |
2009 |
財団法人仙台市市民文化事業団 |
「art review やんや」というコーナーに、歌人の佐藤通雅が「これこそが前衛……」というタイトルで「前衛のみやぎ」展(宮城県美術館)のレビューを寄稿している。同展の印象の他、学生時代に仙台アンデパンダン展のアルバイトを行った佐藤が、宮城輝夫の家に作品搬入に行ったり、会場で糸井貫二が作品を展示する様子を見た思い出を記している。「機会があるたびに見てきた」作家として、井出則雄、佐々木正芳、石川舜、中本誠司らの名前も挙げている。 |
N-VA-2009-001 |
河北新報2009年7月2日 |
‐ |
2009 |
河北新報社 |
宮城県美術館学芸員(当時)の三上満良による紹介記事「宮城県美術館特別展前衛のみやぎ昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」掲載。「前衛のみやぎ」展と、その出展作家を紹介している。宮城輝夫、糸井貫二の解説に多く文字数が割かれており、宮城輝夫「有尾人(アルシブラ)」と羽永光利撮影の糸井貫二の路上儀「殺すな」写真のモノクロ図版が掲載されている。他、出品作家として石川舜らの名前も挙げられている。 |
N-IK-2009-001 |
河北新報2009年7月28日 |
‐ |
2009 |
河北新報社 |
「フィールド・ノート」欄に、生活文化部の喜田浩一による「社会に挑んだ前衛芸術家たち」というタイトルのコラムが掲載されている。宮城県美術館で開催された「前衛のみやぎ」展について書かれた文章中、「強烈だったのは糸井貫二さんが胸にぶら下げた「殺すな」の文字を写した白黒写真。過激なパフォーマンスで「ダダカン」の異名を取った異才ぶりを象徴する。」という文がある。他、佐々木正芳や針生一郎についても触れている。 |
O-VA-2009-001 |
「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」案内状 |
‐ |
2009 |
宮城県美術館 |
2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展の案内状。ポストカード型で両面に展覧会情報が印刷されており、2名までの招待券として使用できるもの。また、表面に加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二、新國誠一、佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前が記載されている。鈴木が所蔵しているのは糸井貫二から郵送されてきたもの。裏面に「2009.6.17ダダカン」と記され、50円郵便切手(2008年7月23日に発売された「はろうきてぃ」のグリーティング切手。ハローキティが十二単を着ているもの)が貼られている。 |
O-VA-2009-002 |
「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」入場券半券 |
‐ |
2009 |
宮城県美術館 |
2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展の入場券半券。、宮城輝夫の作品『有尾人(アルシブラ)』をトリミングして用いた企画展のビジュアルイメージと企画展の基本情報、加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二、新國誠一、佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前を掲載。裏面には宮城県美術館の地図・アクセス情報、観覧の注意等を掲載。 |
B-IK-2010-001 |
1968年文化論 |
四方田犬彦、平沢剛編著 |
2010 |
毎日新聞社 |
黒田ライ児「美術家の「表現行為」1968-1970〈万博破壊共闘派〉を中心に」において、「一九六八年、「現代美術」の状況」のP76、「万博破壊共闘派・前史」のP84、「今日の「運動」につながるもの」のP91でそれぞれ、糸井貫二に言及している。 |
B-IK-2010-002 |
仙台 本のはなし 24人でつくりました 仙台文学館ゼミナール2009-2010本作りワークショップ |
有限会社荒蝦夷編集協力 |
2010 |
仙台文学館 |
小池浩一「90歳の前衛芸術家糸井貫二を訪ねる」が掲載されている。同記事は小池による糸井へのインタビュー「インタビュー・ウィズ・ダダカン」(P110-116)と森繁哉による文章「その人とあった、」(P116-117)から成る。インタビューでは、糸井が俳石や飯田岳楼、結婚や戦争体験を含む生い立ち、仙台でのパフォーマンス、大阪万博会場での全裸走等について語っている。 |
B-IK-2011-001 |
せんだいノート ミュージアムって何だろう? |
仙台市教育委員会監修、仙台・宮城ミュージアムアライアンス(SMMA)編著 |
2011 |
財団法人仙台市市民文化事業団 |
P89-96に「糸井貫二 一期一会」と題して、今井紀彰によるカラー写真を多数掲載。自宅「鬼放舎」にて、談笑し、コーヒーを淹れ、ダダカンケーキを切り分ける糸井の姿が写されている。P96には糸井のプロフィールが掲載されている。 |
F-IK-2011-001 |
「『ダダッ子貫ちゃん』仙台上映会」フライヤー |
‐ |
2011 |
竹村正人 |
2011年10月7日に超五感cafe&gallery パンゲアで開催された竹村正人監督のドキュメンタリー映画『ダダッ子貫ちゃん』上映会のフライヤー。 |
M-IK-2011-001 |
砂漠Vol.1「食べる」 |
砂漠編 |
2011 |
砂漠 |
ZINE。P5、「特集食べる」の扉に、花崎草から贈られた「量販用マスクで作られたベスト」を着た糸井貫二の全身写真がコラージュされている。P6-13に糸井貫二へのインタビュー「ダダカンインタビューわからんものは食べないですよ 聞き手=中里勇太」掲載。震災後の生活、食事、宮城県美術館で開催された「前衛のみやぎ」展を訪れたエピソード、この頃頭を打って体調不良が続き、倒れて病院へ連れて行かれたエピソード等を糸井が語っている。なお、P12の糸井の発言中の「古い傷を見せられて」は「古い地図を見せられて」の誤りかと思われる。 |
N-IK-2011-001 |
河北新報2011年1月24日 |
‐ |
2011 |
河北新報社 |
コラム「河北抄」において、「仙台 本のはなし 24人でつくりました 仙台文学館ゼミナール2009?2010本作りワークショップ」(管理番号:N-VA-2009-001)を紹介しており、「人前にはめったに出ない仙台市の前衛芸術家、糸井貫二さんのインタビューもある。」という文がある。 |
N-IK-2011-002 |
河北新報2011年5月16日 |
‐ |
2011 |
河北新報社 |
無記名コラム「河北抄」において、糸井貫二のプロフィールと、記者が糸井を訪ねて震災後の生活について問答した様子が記されている。 |
N-IK-2011-003 |
河北新報2011年8月18日 |
‐ |
2011 |
河北新報社 |
無記名コラム「河北抄」において、パルコ仙台で開催された岡本太郎生誕100年記念展に絡めて、大阪万博で太陽の塔前を裸で走った糸井貫二を紹介している。「彼のパワーと言動に、勇気と行動力をもらった。シュールレアリスムの作家の中でも突出した人だった」と糸井が岡本について語ったという言葉が引用されている。 |
N-IK-2011-004 |
河北新報2011年11月28日 |
‐ |
2011 |
河北新報社 |
『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(管理番号:B-IK-2011-001)を紹介した「SMMA編「せんだいノート」出版 文化の宝庫 まち再発見」という記事内に「通称「ダダカン」で知られた前衛芸術家・糸井貫二さん(仙台市)の90歳を過ぎた、ひょうひょうとした暮らしぶりも写真で紹介している。」という文がある。 |
F-VA-2012-001 |
「2012年・ゼロ・アートプロジェクト/2012仙台アンデパンダン前夜祭」フライヤー |
「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」実行委員会 |
2012 |
「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」実行委員会 |
A4両面カラーのフライヤー。片面には、2012年5月4日-7月1日にギャラリーターンアラウンド、SARP等仙台のいくつかのギャラリー等で開催された「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」の情報掲載。もう片面には、2012年5月15日-5月20日にSARPで開催された2012仙台アンデパンダン前夜祭の情報掲載。SARPスペースAにおける宮城輝夫、糸井貫二、石川舜、翁ひろみの作品展示、5月20日のSARPにおける「ダダッ子貫ちゃん(ロングバージョン)」上映、6月2日のSARPスペースBにおける「画家・石川舜トークイベント」等の情報が掲載されている。 |
M-VA-2012-001 |
S-meme04現代美術と地域 |
五十嵐太郎発行者、出原日向子、伊藤幹、大内まさ敏、大沼久美、川村亨太、筒井としい、斧澤未知子編集制作 |
2012 |
せんだいスクール・オブ・デザイン |
宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号M-VA-2012-001参照。 |
N-IK-2012-001 |
河北新報2012年5月31日 |
‐ |
2012 |
河北新報社 |
「美術」欄の「2012仙台アンデパンダン展」という記事において、1964年の仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「前衛的な絵画など約110点が並び、「ダダカン」こと糸井貫二が頭部を包帯巻きするパフォーマンスを行った。」という文がある。他、「エノマでは、糸井にオマージュをささげた青野文昭の作品、何かの痕跡のような線が入った千葉洋幸の抽象画が目を引く。」という文がある。 |
N-VA-2012-001 |
河北新報2012年5月17日 |
‐ |
2012 |
河北新報社 |
「仙台アンデパンダン展 22日開幕」と題した記事において、「仙台アンデパンダン展前夜祭」に宮城輝夫、糸井貫二、石川舜、翁ひろみの作品が展示されていることが紹介されている。 |
M-VA-2013-001 |
S-meme05地方都市の美術とツーリズム |
五十嵐太郎発行者 |
2013 |
せんだいスクール・オブ・デザイン |
P1-2に高橋彩「宮城県美術館学芸員の仕事は編集と似ている」掲載。当時宮城県美術館学芸員であった三上満良へのインタビュー内容をまとめた文章である。P7-8、弓削健太郎「タノタイガ個展「風が吹くとき」WHEN THE WIND BLOWS」に関本欣哉の名前が出てくる。P11-12に椚座基道「青野文昭スタジオヴィジット」掲載。P15-18に鈴木直樹「宮城県現代美術史 後半」掲載。現代作家クラブ結成、西公園アートフェスティバル開催から2013年当時までの宮城県の芸術活動の流れを概説した文章である。文中、石川舜、鈴木征一、長谷部昭義、豊島重之、宮城輝夫、糸井貫二、佐々木正芳、米谷栄一、吉野辰海、村上善男、井手則雄、土屋瑞穂、齋正弘、高山登、武田昭彦、二宮不二麿、中本誠司、椎名勇仁、青野文昭、関本欣哉らについて触れている。なお、奥付の「執筆者一覧」において、鈴木直樹のプロフィールに「1981年、北海道生れ。」とあるが、「1980年」の誤りである。 |
N-IK-2013-001 |
河北新報2013年3月31日 |
‐ |
2013 |
河北新報社 |
「表現自由の無審査公募展 作品募集」「5月21日から・仙台の6会場「アンデパンダン展2013」」と題した記事において、1964年の仙台アンデパンダン展について説明した箇所に「前衛的絵画など110点が並び、糸井貫二さんのパフォーマンスが話題になった」という文がある。 |
N-IK-2013-002 |
河北新報2013年5月26日 |
‐ |
2013 |
河北新報社 |
「自由な表現、個性発揮」「仙台の6ギャラリーで「アンデパンダン展」」と題した記事に「ターンアラウンドでは、64年のアンデパンダン展でパフォーマンスを披露したダダカン(糸井貫二)=仙台市=さんが雑誌の切り抜きなどをコラージュして郵送する「メールアート」を出品。」という文がある。他、斉藤文春、翁譲の作品への言及がある。 |
N-IKMT-2013-001 |
河北新報2013年9月10日夕刊 |
‐ |
2013 |
河北新報社 |
「増子静さん個展」と題した記事掲載。2013年9月10日から15日までギャラリーターンアラウンドで開催された増子静個展「晨星の深夜の蜃気楼~煙人との会話2 一瞬と永遠」の紹介記事。「恩師の画家、故宮城輝夫さん(白石市出身)ら亡くなった知人や家族にささげた作品、糸井貫二さん(仙台市)ら芸術家仲間の作品もある。」という文がある。 |
O-IK-2014-001 |
「中島由夫シンドローム」アンケート |
‐ |
2014 |
‐ |
2014年6月8日-22日にギャラリーターンアラウンドで開催された「中島由夫シンドローム展-ダダカン師へのオマージュ-」において配布されたアンケート用紙。糸井貫二へのメッセージを記載する欄がある。 |
B-IK-2015-001 |
日本美術全集第19巻戦後~一九九五拡張する戦後美術 |
椹木野衣責任編集 |
2015 |
小学館 |
掲載図版の120番目、「第三章 戦後の「混沌」」に、糸井のパフォーマンス写真(1970年9月20日、仙台の糸井自宅付近で羽永光利が撮影したもの。本来横長の写真だが、縦長にトリミングされている)が掲載され、「殺すな 糸井貫二1970(昭和45)年」というキャプションが付されている。「図版解説」のP260に福住廉による、同パフォーマンス/写真、そして糸井貫二についての解説が掲載されている。椹木野衣「よみがえる「戦後美術」―しかしこの車はもと来た方向へ走っているではないか」の文章中、「そして大阪万博へ」の章のP179に「路上での発表では裸体をさらす活動が一世を風靡したことが特筆に値する」とのことで、グループGUN、ゼロ次元と共に糸井の名前が挙がる。また、同文章中、「ポスト・フェストゥム(祭りのあと)」の章のP181に「万博芸術へと合流した」表現者の名前が挙げられていく最後に、「また、これらに公然と反旗を翻したゼロ次元や『太陽の塔(カラー図版103)の直下を裸で走り抜けて逮捕された糸井貫二までを含めれば、まさしく大阪万博とは、日本の戦後における百花繚乱であり、同時に最大の百鬼夜行でもあった。」という文がある。「年表」のP302に、1970(昭和45)年の、「4・27」に「 糸井貫二、「お祭り広場」を全裸で疾走し逮捕」、「この年」に「糸井貫二『殺すな』(120)」(「(120)」は図版の番号を表す)とそれぞれ記載されている。「LIST of PLATES 作品リスト」のP309に「120 殺すな 糸井貫二 Don't kill by Itoi Kanji」と記載されている。なお、宮城県美術館の所蔵品からは、高良眞木『土』、篠原有司男『おいらん』、長谷川潾二郎『猫』の図版が収録されている。 |
B-IK-2015-002 |
シルバーアート 老人芸術 |
鞆の津ミュージアム監修 |
2015 |
朝日出版社 |
櫛野展正「ジイさんアートの「生きざま」が未来を照らす」のP9に糸井貫二への言及がある。P49-64に「糸井貫二(ダダカン) 裸身で最前衛を走り抜ける伝説の芸術家」と題し、糸井の生涯をたどるモノローグ風に編集された文章が掲載されている。また、糸井の三点倒立パフォーマンスや鬼放舎、糸井の作ったオブジェ、メールアート、日記等のカラー写真が併せて掲載されている。P169の「写真クレジット」によると、写真は、田中由紀子、櫛野展正、小﨑基広、鈴木由美子、羽永光利によるもの。 |
B-IK-2016-001 |
現代詩文庫229田野倉康一詩集 |
田野倉康一 |
2016 |
思潮社 |
「詩集〈真景〉から」(「真景」には「イメージ」とルビが振られている)のP91に、「ダダカン」という言葉が現れる詩「帰還」掲載。「真景 イメージ」(管理番号B-IK-2009-001)に掲載された詩を再録したものである。 |
B-IK-2016-002 |
ビオクラシー福島に、すでにある |
平井有太 |
2016 |
サンクチュアリ出版 |
P90-103に、平井による糸井貫二への2011年7月11日のインタビュー「糸井“ダダカン”貫二」掲載。糸井が自身の生活や生涯、放射能や原発についての考えを語っている。 |
B-IK-2017-001 |
最後の場所 現代美術、真に歓喜に値するもの |
南嶌宏 |
2017 |
月曜社 |
信濃毎日新聞2010年12月19日号に掲載された「[書評]黒ダライ児『肉体のアナーキズム』」がP496~P497に収録されている。P496に「肉体表現といっても、それは演劇やダンスのことではない。大阪万博の《太陽の塔》の前を裸で走り回ったダダカンこと糸井寛二の、あのアナーキーな行為を思い出してほしい。」という記述がある。資料によって誤差があるが、実際は、糸井は15メートルから30メートル走ったところで警察に確保されたようであり、「走り回った」は多少誇張された表現である。また、名前が「寛二」と誤記されている。 |
N-IK-2017-001 |
河北新報2017年9月29日 |
‐ |
2017 |
河北新報社 |
「芸術は自由だ」「誰でも出品 アンデパンダン展開催」と題した記事に、「会場の一つ、ギャラリーターンアラウンド(青葉区)では、仙台市の前衛芸術家「ダダカン」こと糸井貫二さん(96)が雑誌の切り抜きや手紙をコラージュした「メールアート」を出品。」という文がある。 |
N-IK-2017-002 |
河北新報2017年9月30日 |
‐ |
2017 |
河北新報社 |
「気軽にトーク」欄の「私のアイドル」「芸術家のダダカン」と題した記事において、自営業の57歳の女性が糸井貫二への敬愛の念や文通をしていた経験を語っている。 |
B-IK-2018-001 |
1968[1]文化 |
四方田犬彦編著 |
2018 |
筑摩書房 |
椹木野衣による評論「美術 祝祭、狂乱、共闘、流転」の「騒乱するハンパクの肉体」において、P37-40(P38、39は図版)に「ダダカン(糸井貫二)、ゼロ次元(加藤好弘、岩田信一、38-39頁)、ビタミン・アート(小山哲生)、クロハタ(松江カク)、ガリバー、薔薇卍結社、告陰、秋山祐徳太子などによって代表されるハプナーたちが結集した集会(たとえば「狂気見本市」)では、悪ふざけと紙一重のパロディ、全裸、糞尿投げ、焚き付けまでもが入り乱れた。」、P41に「そのうち、もっとも象徴的な行為として挙げられるのが、万博の開催中に先の「太陽の塔」の直下を全裸にサングラスで走り抜け、警備員に取り押さえられたダダカンによるハプニングであろう。」という文がそれぞれある。巻末の「年表1968~1972」の「1970年4月27日」に「ダダカンこと糸井貫二が万博のお祭り広場のなかを全裸で走り、警察官に取り押さえられる。糸井は1964年の東京オリンピック時代より、裸体パフォーマンスを一貫して実践してきた。」という記載がある。 |
N-IK-2018-001 |
河北新報2018年7月4日 |
‐ |
2018 |
河北新報社 |
「表現自由 アンデパンダン展 仙台・9月26日から」「作品募集 7月20日まで」と題した記事において、1964年に開催された仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「前衛的絵画など約110点が並び、糸井貫二さんのパフォーマンスが話題になった。」という文がある。 |
F-IK-2020-001 |
「ダダカンの「殺すな」展」フライヤー |
‐ |
2020 |
‐ |
前期:2020年11月13日から2020年12月9日、後期:2020年12月24日から2021年1月31日にカフェ・ゴダール・ギャラリーで開催された、糸井貫二の100歳記念展のフライヤー。 |
N-IKMT-2020-001 |
河北新報2020年10月5日 |
‐ |
2020 |
河北新報社 |
コラム「河北春秋」において「せんだい21アンデパンダン展」のことが紹介されている。1964年に開催された仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「赤いふんどし、体に巻いた包帯…。そんな男と学生2人が裸で仙台市中心部を練り歩いたので、皆が驚いた。1964年秋。男らはパン屋に入ってこう叫んだとか。「仙台アンパン、バンザ~イ!▼『箆棒な人々』(竹熊健太郎著)の中で、画家の故宮城輝夫さんが回想している。男は前衛芸術家の「ダダカン」こと糸井寛二さん。」という文章がある。糸井の名前は「寛二」と誤記されている。 |
B-IK-2021-001 |
東京ゴースト・シティ |
バリー・ユアグロー著 、柴田元幸訳 |
2021 |
新潮社 |
小説。P223~P233「その21 東京三点倒立」に「ダダカンの若いときの幽霊」が出てくる。P235にも「ダダカンの若いころの幽霊」への言及がある。裏表紙のイラスト左下に糸井貫二らしき人物が描かれている。 |
E-IK-2021-001 |
ダダカン イトイカンジ個展 Paper Penis Exhibition |
糸井貫二著、小池浩一編 |
2021 |
HOLON BOOKS |
2017年9月2日から9月10日に仙台のホロン・ギャラリーで開催された糸井貫二のペーパーペニス展の作品と製作風景の写真を収めたカラー図録。 |
F-IK-2021-001 |
「ナラティブの修復」展パンフレット |
‐ |
2021 |
‐ |
2021年11月3日から2022年1月9日にせんだいメディアテークで開催された同展のパンフレット。ダダカン連の略歴を掲載。 |
F-IK-2021-002 |
「ナラティブの修復」展会場案内 |
‐ |
2021 |
‐ |
2021年11月3日から2022年1月9日にせんだいメディアテークで開催された同展の受付で配布された会場案内。会場の平面図、ダダカン連の声明と糸井貫二の略歴を掲載。 |
M-IK-2021-001 |
トーキングヘッズ叢書(TH Seires)No.85目と眼差しのオブセッション |
アトリエサード |
2021 |
アトリエサード |
志賀信夫「陰翳逍遥《第41回》」のP50-51に「ダダカン一〇〇歳記念展」と題された文章と2020年11月から2021年1月に開催された「ダダカンの『殺すな』展で展示されたと思われる写真やメールアート等のモノクロ図版3点が掲載されている。文章は表題の展覧会について直接触れておらず、糸井貫二の経歴や、その表現の周辺の動向について簡単に紹介したものである。 |
N-IK-2021-001 |
朝日新聞2021年12月25日(宮城版) |
‐ |
2021 |
朝日新聞社 |
宮城県の地方版の29面に「ダダカン、表現者の足跡 糸井貫二さん、作品展のさなか逝去」という記事が掲載されている。執筆は福岡龍一郎。糸井の経歴を紹介し、当時せんだいメディアテークで開催中だった「ナラティブの修復」展でのダダカン連の展示に至るまでの経緯をダダカン連の細谷修平、三上満良とせんだいメディアテーク学芸員の清水建人の言葉を引いて記している。羽永光利撮影の「殺すな」パフォーマンスの糸井の写真パネル前にいる三上の写真、三上が撮影した「2011ねんごろ」の糸井が自宅でサングラスをかけて座っている写真、「ナラティブの修復」展を観に来た糸井の写真、計3点の写真が掲載されている。なお、同記事は朝日新聞デジタルにも、「表現者ダダカン、その足跡と戦争体験 地元では「黙殺」された過去も」というタイトルで掲載された。 |
N-IK-2021-002 |
河北新報2021年11月9日 |
‐ |
2021 |
河北新報社 |
「せんだいメディアテーク20年で企画展」「コロナ下の語り 提案」「「ナラティブの修復」東北ゆかり10組参加」」と題した記事に、「「ダダカン」こと市在住の前衛芸術家糸井貫二さんの作品や日記帳、私物を集めた有志企画による特設コーナーもある。1970年大阪万博で、パビリオン「太陽の塔」の前を裸で走り物議を醸したパフォーマンスに使用した帽子などを展示している。」という文章がある。 |