宮城県前衛芸術資料室

昭和の宮城県の前衛芸術関連情報を公開します。

糸井貫二(ダダカン)関連資料2(1973-1995年発行/発表分)

最終更新:2024年2月29日(最新の更新箇所は赤字で記載)
前回更新(2023年8月26日)の更新箇所は青字で記載。
補足:
・自分が現在把握している資料をざっと洗い出したところ、まだまだ多くの資料があるため、今後少しずつ更新して充実させる予定です。
・部屋の中で自分の身体の近くにあって、ある程度記述内容の真偽を確認できた順に資料の情報をUPしていきます。UPする資料情報の順番について、その他に特別な意味はありません。
・本関連資料一覧を作成する上で、上原誠一郎氏提供の労作「ダダカン関連書誌」(管理番号:O-IK-2008-003)が大いに参考になりました。上原さんのご尽力に敬意を表すと共に、感謝を申し上げます。

管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
M-IK-1973-001 終末期の密教 人間の全体的回復と解放の論理 稲垣足穂梅原正紀編著 1973 産報 1968年から1970年までの若者たちの国分寺市での共同生活の顛末を綴った、山尾三省「第4章 部族を志向した聖集団―愛と自由と知恵による結びつき」の「1 部族社会の発見」中、P93(国立国会図書館デジタルコレクションで対応するのは、コマ番号52)に、文章の内容と関係のない糸井貫二の写真がイメージ的に掲載されている。糸井は写真や花札等、雑多なものをコラージュ的に縫いつけたノースリーブの上着を着ており、写真には「仙台市郊外で独自の生きざまを示すヒッピーのひとり」とキャプションが付されている。P6に「本文写真提供/羽永・光利・内藤 正敏」と記載されているため、おそらく羽永光利が撮影した写真であると思われる。
B-IK-1977-001 現代の絵画23今日の日本の絵画 針生一郎 1977 平凡社 「評論」の「アンフォルメルとネオ・ダダ」という文章中、P17に「じっさい,50年代末から60年代前半にかけては,福岡に桜井孝身,菊畑茂久馬,オチオサムらの「九州派」,福井に河合勇,橿尾正次らの「北美」,名古屋に加藤好宏らの「ゼロ次元」,岐阜に西尾一三,小本章らの「VAVA」,東京に中沢潮,田中不二,土居樹男,長野祥三の「時間派」,仙台にいた糸井貫一などのグループや個人が,それぞれの角度からアサンブラージュやイヴェントをこころみている。」という文がある。糸井の名前は「貫一」と誤記されている。
B-IK-1977-002 流氓の解放区ヨシダヨシエ評論集 ヨシダ・ヨシエ 1977 現代創美社 『展望昭和四十四年八月号第一二八号』(管理番号:M-IK-1969-003。糸井貫二(ダダカン)関連資料1(1920-1972年発行/発表分)ページ参照)に掲載された評論「芸術展望・69ハプニングの変貌」が「ハプニングの変貌」と改題されて掲載されている。同評論のP22とP25に吉野辰海、P24とP25に糸井貫二への言及がある。
B-IKMT-1979-001 戦後美術盛衰史 針生一郎 1979 東京書籍 「八 ネオ・ダダから「反芸術」へ」において、「タブローの閉塞と苦悩」のP119、1959年の第3回シェル美術賞においては、それまでと「受賞傾向が変って」、「圧倒的に無所属作家に比重が移ってくる」として、受賞者の名前が挙がる中に宮城輝夫の名前がある。同章において、「ダダ的グループの蔟生」のP124、九州派の「英雄たちの大集会」の参加者に「仙台からきた美術家」とあるのは糸井貫二のことを指すものだろうか。ただし、この時糸井はまだ仙台に住んでいない。「九 画商とコレクターの役割」において、「コレクターとパトロンの変貌」のP132、「洋画商連盟展」に1964年までに加わった作家名が列挙される中に、針生鎮郎、宮城輝夫の名前がある。同文章中、P136、コレクターの田口武雄が収集していた作家の名前が挙げられる中に宮城輝夫の名前がある。「十 ポップ・アート前後」において、「読売アンデパンダン展の廃止」のP145に、「六三展の初日には、美術館前の広場で数人の若者がハプニングを演じて警察の取調べをうけ」と記載がある。これはアンビートのメンバーと糸井貫二によるハプニングを指すものであろう。「十二 万博と造反の季節」において、「美術機構への挑戦」のP188に「四月には糸井貫二がお祭り広場を全裸で疾走して逮捕された」と記されている。
M-IK-1981-001 美術手帖1981年11月号 木村要一編集人 1981 美術出版社 「展覧会レポート」の今泉省彦「インポ哲学と「悟り」―「工藤哲巳1977-1981」展」のP170に、以下の文章がある。「思えば六〇年代にアンデパンダン展を根城にして、むちゃくちゃをやった工藤とその同世代は、批評をもってしておのれの表現としたのであった。吉村益信のサダダは言うに及ばず、日本流亡の河原温荒川修作、篠原有司男、桜井孝身、流亡も出来ぬ貧乏の糸井貫二赤瀬川原平、風呂桶に泥棒を入れて出品したのは誰だっけかなあ。」
M-IKMT-1981-001 早稲田文学1981年4月号 早稲田文学編集室 1981 早稲田文学 特集「思潮の三角点◎発禁を考える」に平岡正明「赤い風船事件」掲載。『赤い風船』を発行していた犯罪者同盟の「全員御用事件」の顛末を記す。同文中のP61、『赤い風船あるいは牝狼の夜』(1963年発行)の内容説明に「64糸井貫(写真)」とある(「64」は掲載ページ数を表す。また、「糸井貫とは、ダダ貫といわれた仙台のダダイスト」と解説されている。
B-IK-1982-001 解体劇の幕降りて-60年代前衛美術史「戦後前衛所縁荒事十八番」増補改題 ヨシダ・ヨシエ 1982 造形社 『戦後前衛所縁荒事十八番』(管理番号:B-IK-1971-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料1(1920-1972年発行/発表分)ページ参照)の改訂増刷版。「原爆の図」を背負って……(その二)」のP57に豊島弘尚と昆野勝への、「アンフォルメルの嵐」のP72とP75とP76に昆野勝への、P79-80に豊島弘尚への、「狂乱のネオ・ダダ」のP97とP104、「読売アンパン轟沈す」のP110に吉野辰海への、「岡本太郎の<塔>」のP67、「読売アンパン轟沈す」のP110とP112とP117、「「九州派」の英雄たち」のP150、「モルモット・アンダーグラウンド」のP168、「嗚呼千里丘陵」のP182、「自由梱包、行きつく果ては……」のP187に糸井貫二への、「嗚呼千里丘陵」のP181に井手則雄への、それぞれ言及がある。
M-IKMT-1982-001 別冊美術手帖 1982年秋号美術ガイドみちのくの美 別冊美術手帖編集部編 1982 美術出版社 P62-74に村上善男「プロムナード仙台―街と美術と」掲載。P66-67に「東北大金属研究所のある片平町の北乃画廊は、小田襄の版画作品と、宮城輝夫作品を双柱として、企画個展のローテーションを組んでいる。」という文がある。P67に、「戦後、<エスプリ・ヌウボオ>を興した宮城輝夫が呼びかけ人となった「'64仙台アンデパンダン展」の会場は三越デパートであった。会期中に全裸に近い異相でハプニングを演じた、ダダカンことイトイカンジの行為にたじろいだ市内各デパートの催事場は、あやしき現代美術をしめだす。以降、読売会館七階に新設された市民ギャラリーが、公認された現代美術の展示場となる(イトイカンジ今いずこ!)。」という文がある。他、P67、P68で佐々木正芳に、P68で中本誠司に、それぞれ触れている。他、P16-28、「プロムナード盛岡―街と美術と」の執筆も村上善男が担当している。
B-IK-1985-001 通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい 秋山祐徳太子 1985< 土曜美術社 「第二章通俗的行動学中年戦記」のP122-124、「「反博」金メダリスト」は糸井貫二について書かれたエッセイ。糸井のメールアートや大阪万博での全裸疾走について触れている。文中、上條順次郎の苗字が「上条」と誤記されている。他、P250、P338に針生一郎の名前が現れる。
B-IKMT-1985-001 仙台起繪圖 村上善男 1985 用美社 エッセイ集。「美術手帖」1982年12月号から1983年8月号に連載された「北奥異聞 破線に結ぶ」が収録されている。この中のP51-55「セキブツ」中、P55で加藤正衛に言及している。また、P56-60「正衛」という加藤正衛について書かれたエッセイ中、仙台アンデパンダン展の合評会で「一点ずつ作品評を始めた」人物についての思い出を記す中、P57に「火照りがおさまってから、隣席の、展覧会のオルガナイザー宮城輝夫氏に、人物が何者であるかと尋ねた。「フワケズのカトウマサエさん」ということであった。」という文がある。同文中、P58では佐々木正芳の名前も現れる。P213-227「仙台極私地図」は「別冊美術手帖 1982年秋号美術ガイドみちのくの美」(管理番号:M-IKMT-1982-001)に掲載された「プロムナード仙台―街と美術と」を改題したものである。文中に、宮城輝夫、佐々木正芳、イトイカンジの名前が現れる。詳細は本ページ、管理番号M-IKMT-1982-001参照のこと。
B-IK-1985-002 いまやアクションあるのみ!<読売アンデパンダン>という現象 赤瀬川原平 1985 筑摩書房 P121、「第四章無償のスペクタクル」扉に電球を体につけた升沢金平のモノクロ写真が使われている。P147には赤瀬川による升沢とその作品を描いたイラストが掲載されている。P122、P134、P145、P146に升沢金平の名前が、P142、P143に吉野辰海の名前が、それぞれ現れる。「第五章坩堝が割れる」のP160-161に以下の文章がある。「いつも見るのは、糸井貫二の作品である。どこかの村外れの廃屋から外してきたような薄汚れた板で、祠のような小屋のようなものがしつらえてある。中をのぞくと薄暗い中に週刊誌からち切ったような、粗末な印刷のカラーのヌード写真。ふっと空気に触れて皮膚がただれるような、衛生博覧会的な雰囲気。そんな作品が毎年シリーズのように出品されていて、はじめは名前もわからなかった。それが猥褻なのか神聖なのか、芸術であるのかどうかもわからず、読売アンデパンダンの一つの代表的な印象となっている。」。同章のP161には、松沢宥の「プサイの函」シリーズが糸井の作品と「同じ印象のもの」とした上で、「その函を構成する材料が糸井貫二と相似する薄汚れた古び方」と記している箇所がある。P165に第12回読売アンデパンダン展に糸井が出品した「阿字観」を描いたものと思われる、赤瀬川のイラストが掲載されている。イラストの横には、「糸井貫二の作品の記憶 田舎の家の古材のようなものを使い、中に週刊誌のヌードのようなものが祀ってある」というキャプションが付いている。なお、このイラストは裏表紙にも使われている。同章、P174において、第14回読売アンデパンダン展の撤去作品を挙げていく中に、「猥褻関係では糸井貫二、ダダ貫である。覗き箱の中に五千円の株券二十枚を並べたその中に、特権的女体の「無修整」写真。」という文章がある。「終章美術館のカケラ」のP208、国立近代美術館で開催された「一九六〇年代-現代美術の転換期」展について「物足りない」気持ちをあらわす中に、「糸井貫二のモノ、サイタ亭のモノ、広川晴史のモノがない。」という文がある。「●読売新聞社主催「読売アンデパンダン展」の出品者名抜萃」のP219、第二回に井手則雄の、P219、第三回とP221、第十一回とP222、第十二回と第十三回に糸井貫二の、P221、第十回にカンイトイの、P223、第十五回にイトイカンの、P222、第十三回と第十四回、P223、第十五回に吉野辰海の、P222、第十四回に村上善男と升沢金平の、名前がそれぞれ掲載されている。
M-IK-1985-001 美術手帖1985年10月号 1985 美術出版社 「[特集]パフォーマンス」の「「行為の軌跡」パフォーマンスの歴史」の高島直之「行為の軌跡[日本]」のP73、「九州派」の章において、1962年に百道海水浴場で開催された「英雄たちの大集会」の参加者の名前が挙げられる中に、糸井貫二の名前がある。
B-VA-1986-001 河北美術展50回記念宮城県美術館開館5周年記念河北美術展半世紀の歩み 宮城県美術館河北新報社 1986 河北新報社 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1986-001参照。
M-IK-1986-001 早稲田文学1986年12月号 早稲田文学編集室 1986 早稲田文学 「鼎談あぶない同時代'60赤瀬川源平・上野昂志・四方田犬彦」のP18において、読売アンデパンダン展を観た印象を語る中で、赤瀬川源平が以下のように述べている。「変なものがあるって。僕なんかもわりと遅い方だけど、そのことを別にしても、本当に変なものがあるわけ。ちょっとアブナイやつね(笑)。例えば糸井貫二なんかは、戦前もダダをやってたわけだけれど、かなり変なものでしたね。僕らのガヤガヤやっている連中は、一応はそのころの美術の潮流というか、ある作法を踏んでるみたいな所があるわけ。だけど、糸井貫二なんかの作品はそういう潮流ぬきでとても生々しいのよね。生活からいきなり踏み込んできたというか。」糸井が「戦前もダダをやってた」というのは赤瀬川が陀田勘助と糸井を混同したものだろうか。
M-IK-1986-002 美術手帖1986年5月号 宮澤壮佳編集人 1986 美術出版社 「[特集]美術の土方巽」の市川雅「肉体の物質性、物質の肉体性」のP28、1962年の第14回読売アンデパンダン展の状況を説明する箇所において、撤去された作品を挙げていく中に「糸井貫二の性行為を描いた作品」という記述がある。
E-IK-1990-001 中島由夫1940-1990(普及版) 大橋洋子編 1990 海文堂ギャラリー 神戸市の海文堂ギャラリーで開催された中島由夫の展覧会に併せて刊行された画集の普及版。「年譜」のP62に「1956~1957年 ダダイズムの祭典に参加、糸井貫二氏を知る」と記載されている。P66の「主要参考文献」に「「DADA プラス ZEN」田代みのる 糸井貫二 中島由夫 1957年」と記載されている。
B-VA-1991-001 宮城県芸術年鑑平成2年度 宮城県生活福祉部文化振興室編 1991 宮城県生活福祉部文化振興室 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1991-001参照。
M-IK-1992-001 美術手帖1992年5月号 1992 美術出版社 「つらぬかれた<昭和>の個性[特集]岡本太郎の世界」の「Part3時代の証言」の今泉省彦「岡本太郎と戦後美術」のP94、「万博・七〇年代」の章に「京大ではゼロ次元を中心にした反万博の騒ぎがあったし、糸井貫二が万博会場内を全裸で走り回ったりもした。」という文がある。
B-IK-1993-001 日本アンデパンダン展全記録1949-1963 瀬木慎一監修、総合美術研究所編 1993 総美社 日本アンデパンダン展目録・関連記事」に以下の出展記録がある。「第2回展」の「彫刻」のP41に井手則雄「報道の自由…石膏」、「第3回展」の「彫刻」のP64に糸井貫二「たまご」、「第9回展」の「絵画の部」の「〔第17室〕」のP170に針生鎮郎「番地A」と「番地B」、「第10回展」の「絵画の部」のP188にカンイトイ「無動…洋」と「無位…洋」(「洋」は洋画を表す)、「版画の部」のP197にカンイトイ「菩薩」と「ぶどうと子供」と「芽」、「彫刻の部」のP198にカン イトイ 「放射能」と「宇宙人」、「第11回展」の「絵画の部」の「〔第4室〕」のP205に糸井貫二「非常…洋」、「版画の部(第23・24室)」のP211に糸井貫二「パートタイマーのうた」、「彫刻の部(第24室)」のP212に糸井貫二「鳩飼いし頃」、「第12回展」の「絵画の部」のP218に糸井貫二「涅槃達陀」と「障子」と「えだ」、「彫刻の部」のP226に糸井貫二「阿字観」と「「行動だ」」と「間」、「第13回展」の「〔絵画〕」のP238に糸井貫二「ダダッ子貫ちゃん」と「作品-3」」、「〔彫刻〕」のP240に糸井貫二「個展」、「第14回展」の「〔絵画〕」のP247に村上善男「価標」、「第15回展」の「〔絵画1〕(壁面使用の造形作品を含む)」のP263にイトイカン「ダダカンの鞄」、「〔彫刻〕(造形作品を含む)」P268に「〔彫刻〕(造形作品を含む)」にイトイ・カン「43歳になった一匹狼」。「第12回展記事(昭和35年)」のP227に掲載された読売新聞昭和35年3月1日夕刊記事「読売アンデパンダン展美の興奮に包まれてひらく」に「絵画、彫刻など出品は約千点、無名作家の登竜門とあって、いずれも大胆な構成と色彩が陳列の壁面から飛び出しそう。なかでも戸板でつくった小屋の奥にヌード写真をはりつけた"阿字歓"セメントだらけのリンゴ箱に七色のテープをめぐらしたアンフォルメル派の活躍に観客も「若い世代の考え方がよくわかる」と感心の体。」と、糸井貫二出品作の「阿字観」についての言及がある。「出品作家INDEX」のP301に「井手則雄…②」、「イトイカン…⑩⑮」、「糸井貫二…③⑪⑫⑬」、P323に「針生鎮郎…⑨」、P328に「村上善男…⑭」とそれぞれ記載あり。
B-IK-1992-001 スピリットの森から 内なる変容とエコロジー おおえまさのり 1992 柏樹社 「第三章 場の精神」のP121-130に「iii-ダダイスト・イトイカンジ」という文章が掲載されている。1970年に上京した糸井貫二をおおえが「東京案内」した思い出や、それ以来の糸井との手紙での交流、1988年におおえが糸井宅を訪問して再会して糸井から聞いた様々なエピソードが綴られている。P123に、万博会場での糸井の全裸走について記載されているが、太陽の塔に籠城した男と糸井が「共に、密かに万博会場に忍び込み」、糸井が「走り回った」間に「めがね男は太陽の塔によじ登って籠城」と幾つかの事実誤認がある。
M-IK-1993-001 出版ニュース1993年12月下旬号 出版ニュース編集部編 1993 出版ニュース P3、羽永光利「写真集から 柿田清英著『崩れゆく記憶-端島炭鉱閉山18年目の記憶』」において、端島炭鉱について語る中で糸井貫二に触れた、以下の文章がある。「たまたま私は、その地底に奴隷のごとく連がれた生き証言を聴いている。糸井貫二ダダカン、と親しまれて、今もご存命かどうか不明だが仙台市太子堂に孤住していた。ご記憶の良いひとなら、大阪万博開幕の折り、全裸で万博反対を叫び太陽の下を走り廻った話題の御仁である。ニヒリストを自称、路上の草木を摘んで食し、瞑想終始、陽の良い日は「殺すな」と大書した褌(ふんどし)ひとつで仙台市中を闊歩する。そのひとが戦時中、思想犯としてこの「軍艦島」に拉致され肉体の芯まで絞り抜かれた。「地下の、千丈も二千丈も暗がりと息も出来ぬ奥深い処に落ちてのう、いやホンマに落ちて行くような奈落でのう」カンテラの灯も酸素が欠乏して消え、暗闇のなかで手探りで回し飲みした椀の塩水。重労働のあとのこれは天上の馳走であった。と言う。以来、この老夫には草木が常食となった。」しかし、「箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝」(管理番号:B-VA-2007-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料3(1996-2021年発行/発表分)ページ参照)のP324では、糸井は炭鉱徴用令に「自分から志願したんですよ」と語っており、「思想犯としてこの「軍艦島」に拉致され」という記述は誤りである。また、糸井が炭鉱労働に従事したのは、端島炭鉱ではなく、筑豊炭鉱である。他にも誇張めいた表現が多く、鍵括弧内の言葉も糸井の普段の口調とは異なっており違和感がある。

2023年2月15日公開

宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)

最終更新:2023年4月12日(最新の更新箇所は赤字で記載)

前回更新2023年2月4日の更新箇所は青字で記載

管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
B-M4-1963-001 阿部次郎全集第15巻 阿部次郎 1963 角川書店 昭和17年の日記にそれぞれ以下の記載あり。P108、十月三十一日「午後三越行獨立展一瞥、宮城四郎の遺出色」。P109、十一月十九日「宮城四郎遺作展紹介文をかく」。P110、十一月二十七日(東北帝大出勤の)「歸途藤崎に宮城四郎遺作展を見る」。なお、P9、昭和9年の一月五日「……日中年賀状、四時過外出、春日の例會七時より。原、宮城、佐藤と余との四人のみにて他の五人は差支不参。Fall M.」とあるが、これはおそらく、無名会の会員、原龍三郎、宮城音五郎、佐藤彰をそれぞれ指しており、宮城四郎のことではないだろう。
B-M4MT-1974-001 宮城四郎 宮城輝夫の人と芸術 吉見庄助 1974 白石美術愛好会 白石市図書館新築記念の宮城四郎・輝夫展開催に併せて限定300部発行された冊子。宮城四郎・輝夫兄弟について同郷の吉見庄助がその「人となり」や生い立ちを記す。巻頭に宮城四郎の油彩画『雪の街』と『三陸海岸』のモノクロ図版掲載。『雪の街』は他の資料では、『風景』というタイトルを付されている。P7に宮城四郎が弘前高等学校に入学したのが「昭和五年四月」という記述があるが、「昭和三年四月」が正しい。P13に、宮城四郎が没後も含めて三回、独立展に出品したという記述があるが、正確には四回の出品である。P13に、最後の独立展出品作のタイトルが「馬」と記されているが、「乗馬」が正しい。
B-M4-1976-001 詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄 小高根二郎 1976 国文社 「『夏花』期」の「昭和十五年」の章、P471に以下の記述がある。「平井弥太郎君は私の大学時代の画友の一人だった。宮城県の白石中学を出ただけのランボーきどりの少年だった。私は高校時代の友人Mと蒼穹会という絵の会をつくったが、友人が紹介してきた平井も会員の一人に加えたのだった」。この「友人M」とは、おそらく、小高根二郎と弘前高等学校で同じ美術部に属し、平井弥太郎と同郷で蒼穹会に所属していた宮城四郎のことであろう。
B-M4MT-1976-001 青春のうた 白石高校 毎日新聞仙台支局編 1976 毎日新聞仙台支局 P121-124『芸術への道②』にて、宮城四郎が、P124-127『芸術への道③』にて、宮城輝夫が、それぞれ高校時代のエピソードと共に紹介されている。『城山運動会②」中、P88にも学年対抗リレーの結果に抗議した四年生の一人として四郎の名が挙げらている。他、小室達、平井弥太郎、大泉茂基らが取り上げられている。当ウェブサイトのテーマから外れた余談になるが、白石高校出身の宍戸錠のエピソードも面白い。
E-M4MT-1981-001 「所蔵作品展 みやぎの美術」図録 宮城県美術館 1981 宮城県美術館 宮城県美術館開館記念に開催された同展図録。P81に宮城輝夫『月の番人』モノクロ図版掲載。「解説」と題した文中、P103に宮城輝夫への簡潔な言及あり。出品目録中、P107に『月の番人』の簡単な説明掲載。P125、「宮城県美術関係年表(1876~1942)」の1941(昭和16)年に「松田春雄、宮城四郎、上田耕作ら独立展入選者により東北独立美術協会が結成される。」と記載あり。
B-VA-1985-001 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み 成瀬忠行 1985 成瀬忠行 P10「宮城県洋画人物故作家一覧(明治・大正・昭和」に「加藤正衛 平和の願い(油)」、「狭間二郎 カット」、「樋口加六 白馬岳(油)」、「宮城四郎」の記載、P42に加藤正衛の略歴と「平和への願い」モノクロ図版掲載。P43に上田耕作による随筆的な文章「加藤正衛君のことども」掲載。文中には「宮城輝夫君を中心に新鋭の若者達を一丸として誕生したエスプリヌーボーにも参加して」との記載もある。P47に狭間二郎の略歴と、何かの挿絵の再録であろうか、「カット」とキャプションの入った絵のモノクロ図版掲載。P48に樋口加六の略歴、「白馬岳」モノクロ図版、元仙台市長の島野武が「個展案内状」に寄せた短い文章「樋口画伯と私」掲載。その文中では、「大正9年の元旦、彼と一緒に仙台から裸のマラソン塩釜神社の元旦詣り」したことが記されている。P56に宮城四郎の略歴掲載。「昭和2年弘前高校入学」と記載されているが、昭和3年が正しい。「昭和10年独立美術展初入選」とあるが、昭和12年が正しい。P65に樋口加六が中島哲郎の昭和45年の個展に寄せたのであろう短い文章掲載。P75からの「宮城美術年表」では、P77の昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。P80からの「2.宮城県連合美術展について」では、P82の「第3回展 1958年(昭和33年)」と「第4回展 1959年(昭和34年)」の「参加グループ」に「エスプリ・ヌウボオ」の名前が見える。P89からの「宮城県芸術協会絵画部記録」の「洋画の部」では、「第1回宮城県芸術祭選抜美術展」の審査員に狭間二郎の、「宮城県芸術協会委員展」の「出品者」に二宮不二麿と加瀬正衛(加藤正衛の誤記であろう)の、「第4回宮城県春の芸術祭絵画展」の審査員に二宮不二麿と加藤正衛の、「第8回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に加藤正衛の、「第10回宮城県芸術祭美術展絵画展」の審査員に二宮不二麿の、それぞれの名前がある。P112、「河北美術展顧問招待委嘱作家(60.現在)」の「洋画」に「招待 宮城輝夫」の記載あり。P114からの「宮城県内各種団体会員名簿(59.現在)」では、P119で「オブジェ・パーティⅡ」に石川舜、大嶋貴明、高山登の名前がある。
B-M4MT-1986-001 エロスと創造のあいだ 22人の美術家との対話 ヨシダ・ヨシエ 1986 展転社 美術評論家のヨシダ・ヨシエと宮城輝夫の対談『宮城輝夫 暗闇に変化する植物・器官・人間』収録。川端画学校入学時からの様々なエピソード、戦前に携わった芸術活動、制作方法や考えにいたるまで、幅広く輝夫が語っている。また、ヨシダの「たしか戦前、左翼運動にもかかわっておられたとか?」という質問に対し、「いや、僕のすぐ上の兄のことです。左翼関係の本をよく読んでいて、刑事がきたりしました。」と四郎についての簡単な言及もある。
B-VA-1986-001 河北美術展50回記念宮城県美術館開館5周年記念河北美術展半世紀の歩み 宮城県美術館河北新報社 1986 河北新報社 P59に1974年の第38回河北美術展で文部大臣賞を受賞した大嶋貴明『Landscape'1984'』のカラー図版掲載。佐藤明による文章『河北美術展のはじめの頃』中、P63に宮城輝夫、上田朗、佐々木正芳への言及がある。塩田長和による文章『河北美術展に生きる』中、P66に狭間二郎への言及がある。酒井哲朗による文章『河北美術展50回記念に寄せて』中、P70に狭間二郎の発言の引用がある。P85に大嶋貴明の略歴掲載。年表中、それぞれ以下の記載あり。P90の1932(昭和7)年6月、「第1回蒼穹会洋画展,宮城四郎,小高根二郎,安田豊ら。勝本,児島の東北大教授らも特別出品(旧明治製菓 4~6日)」。P92において、第5回東北美術展の開催期間が「5月5日~14日」と記載されているが、当初の予定よりも開催期間が延長されたため、「5月5日~16日」が正しい。P100の1953(昭和28)年9月、「第1回エスプリ・ヌウボオ展(仙台市公会堂 19~23日)」。同ページ、1954(昭和29)年7月、「エスプリ・ヌウボオ第2回展(丸光 6~11日)1日付で機関紙発行」。P107の1964(昭和39)年9月、「仙台アンデパンダン展(三越 29~10/12日」。P112の河北美術展第33回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市教委賞「作品」翁 恵美(仙台)」。P113の河北美術展第34回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台美術館賞「女の首」翁 譲(東京)」。P114、河北美術展第35回展について「■本年から新たに下記の諸氏が招待作家に推せんされた。日本画 能島康明,洋画 宮城輝夫,彫刻 土屋瑞穂」。P116の河北美術展第37回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「仙台市美術館賞「ヤエ」翁 恵美(仙台)」。P117の河北美術展第38回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「一力次郎賞「赤いセーター」翁 恵美(仙台)」。また、同展について「■本年から彫刻の翁観二氏が招待作家に推せんされた。」。同ページ、1974(昭和49)年5月に、「宮城四郎,宮城輝夫絵画展(白石図書館 25~29日)同館の開館記念展」。P118の河北美術展第39回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「河北賞「クロッキーブック」翁 恵美(仙台)」。P119の河北美術展第40回展の受賞者一覧「彫刻」部門に「宮城県芸協賞「回想」翁 恵美(仙台)」。P123、河北美術展第44回展について「■本年の特別賞は日本画小野恬氏,洋画宮城輝夫氏が受賞した。」。P126、河北美術展第47回展について、顧問に推薦された中の一人として、翁観二の名が挙がっている。「河北展入賞・入選者名」に、以下の名前が見える。P130、第1回に「小高根二郎(仙台)」、第2回に「宮城四郎(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第3回に「吉見庄助(東京)」、「宮城四郎(仙台)」、「宮城輝夫(東京)」、第4回に「狭間二郎(宮城)」、第5回に「狭間二郎(仙台)」、「宮城四郎(仙台)」。P131、第6回に「宮城輝夫(東京)」、第7回に「宮城輝夫(宮城)」、第10回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」、第11回に「加藤正衛(宮城)」、「宮城輝夫(宮城)」。P132、第12回に「加藤正衛(宮城)」、第13回に「加藤正衛(宮城)」、第14回に「加藤正衛(仙台)」、「針生鎮郎(仙台)」。P133、第15回に「宮城輝夫(白石)」、「針生鎮郎(仙台)」、第16回に「宮城輝夫(白石)」、「佐々木正芳(仙台)」、第17回に「狭間二郎(仙台)」、「糸井貫二(仙台)」。P135、第23回に「石川舜(仙台)」、第24回に「石川舜(仙台)」、「加藤正衛(仙台)」、第25回に「村上善男(盛岡)」、「石川舜(仙台)」、P136、第26回に「新国誠一(仙台)」、第28回に「石川舜(仙台)」、「永寿慎一(仙台)」、「鈴木光一(宮城)」。P137、第29回に「永寿慎一(仙台)」、「石川舜(仙台)」。P138、第33回に「翁ひろみ(仙台)」、第34回に「翁譲(東京)」、「翁恵美(仙台)」。P139、第35回に「翁恵美(仙台)」、第36回に「翁譲(東京)」、「翁ひろみ(仙台)」、第37回に「翁恵美(仙台)」。P140、第38回に「大嶋貴明(仙台)」、「翁恵美(仙台)」、第39回に「翁恵美(仙台)」、第40回に「翁恵美(仙台)」。P141、第41回に「翁恵美(仙台)」。「出品目録」、P147に大嶋貴明『Landscape'1984'』の作品情報掲載。
B-M4MT-1987-001 美の旅―春・夏・秋・冬 宮城正俊 1987 宝文堂出版販売株式会社 エッセイ『みやぎの近代美術 その回顧と展望』中、『河北美術展の歩み』の章中、P171で狭間二郎について、『宮城の生んだ彫刻家』の章中、P175において翁朝盛、翁観二、翁ひろみについて、それぞれ触れ、『明日への期待』の章中では、P176からP177にかけて、針生一郎、宮城輝夫、佐々木正芳、針生鎮郎、狭間二郎、樋口加六、宮城四郎についての言及がある。他、P142にも針生一郎の名前がある。P201からP203にかけて翁朝盛についての言及がある。
B-VA-1987-001 宮城県芸術年鑑昭和61年度 宮城県生活福祉部県民生活課編 1987 宮城県 「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P38に「もうひとつ、宮城県美術館の特集展示に県出身の「独立美術の三人」が取り上げられた。狭間二郎、樋口加六、宮城四郎の三人であるが、この世代の画家たちの油絵というものを信じ切った誠実な表現が人の心を打ち、とりわけ宮城四郎の才気溢れる作品に接して、その早世が惜しまれてならない。」という文がある。他、P38に針生鎮郎の、P38からP39にかけて宮城輝夫「風景の中の不随意筋的な風景」展の、P40に高山登佐々木正芳の、それぞれ個展評がある。P40、ホンダ・クリオギャラリーの方針転換に言及する中で、過去に同ギャラリーにおいて「内容のある個展」を開いた者として石川舜、太嶋貴明の名前が挙がる。P44に針生鎮郎「ドボン・オロチ(A)」、P45に佐々木正芳「昼さがり」のモノクロ図版がそれぞれ掲載されている。「各ジャンルの動向」の土屋瑞穂(当時宮城県美術館学芸部長 ※なお、P50では「土屋端穂」と名前が誤記されている)による「彫刻」の章においてP47に、1986年に急逝した井手則雄についての言及あり。
F-M4-1987-001 宮城県美術館特集展示『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』パンフレット 宮城県美術館 1987 宮城県美術館 1987年1月6日から2月15日に開催された宮城県美術館の特集展示『独立美術の3人』パンフレット。A3両面印刷。狭間二郎・樋口加六・宮城四郎についての紹介文と出品作一覧、年譜を掲載。以下、宮城四郎の年譜について指摘と補足。「1926(大正15) 白石中学を卒業」とあるが、1927(昭和2)年が正しい。「1927(昭和2) 弘前高校に入学」とあるが、1928(昭和3)年が正しい。「1928(昭和3) 病気のため弘前高校を中退」とあるが、1929(昭和4)年が正しい。「1932(昭和7) 東北大学文学部美学研究室の聴講生となる」とあるが、1935(昭和10)年が正しい。また、「東北大学」よりも「東北帝国大学」がより正確な表記である。四郎が出品した第2回から第5回の東北美術展を「河北展」と記載しているが、「東北美術展」が正しい。1936年、第4回河北展出品作『習作」の正確なタイトルは他資料によると、『習作(静物)』である。
N-M4-1987-001 河北新報昭和62年1月16日夕刊 1987 河北新報社 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。7面「憩いこい」欄に、同特集展示の紹介記事「みやぎの生んだ独立美術の3人~狭間二郎・樋口加六・宮城四郎~」が掲載されている。当時宮城県美術館学芸員の原田敦子による記事。独立美術協会の説明と特集する3人の略歴が記されている。展示において、現在所在不明の宮城四郎作品「母子像」の「写真パネルも併せて紹介されている」ことが書かれている。
N-M4-1987-002 河北新報昭和62年1月23日夕刊 1987 河北新報社 5面「タウン情報せんだい」の「展覧会」に宮城県美術館で開催された「特集「狭間二郎・樋口加六・宮城四郎―独立美術の三人」の情報が掲載されている。
B-M4MT-1991-001 宮城洋画人研究 明治 大正 昭和物故作家の歩み'91続 成瀬忠行 1991 成瀬忠行 画家の没年一覧に「宮城四郎 昭和16年 33歳」の記載、P12に二宮不二麿の、P13に東北学院高校で針生鎮郎や石川舜を教えた粟野耿介の、P46に佐藤明の、略歴がそれぞれ掲載されている。P59の年表では、昭和16年に「宮城四郎没」、昭和28年に「エスプリヌーボー結成~宮城輝夫」の記載あり。続くP60で、昭和39年に「仙台アンデパンダン展開催~宮城輝夫」の記載あり。P65の「河北美術展顧問・招待・委嘱作家(平成2年現在)」の「洋画の部」に「顧問 宮城輝夫(仙台市)」の記載あり。
B-VA-1991-001 宮城県芸術年鑑平成2年度 宮城県生活福祉部文化振興室編 1991 宮城県生活福祉部文化振興室 特集一『宮城県芸術年鑑を通して見た本県の芸術二十年』の宮城正俊『「年鑑」による回顧と展望』中、P11からP12に佐々木正芳について、P15に翁ひろみについて、それぞれ言及あり。同特集の小野昌和『精神的な豊かさを求めて』中、P20に宮城県芸術選奨の第一回受賞者として、佐々木正芳、佐藤鬼房らの名前が挙げられる。特集二『宮城県における戦後四半世紀の文化活動史』の西村勇晴『シリーズ(その十一)洋画』中、『河北美術展と新東北美術展』の章において、P36に新東北美術展の第十回展と併催した「明治以後物故作家遺作展」に宮城四郎の作品が展示されたことが記されている。また、同ページでは、新東北美術展の洋画の部の委員を務めた「これから長く本県の美術活動をリードしていくことになる人々」として狭間二郎、宮城輝夫らの名前が挙げられている。『各地の活動』の章においては、P39に狭間二郎が「仙台独立美術会を再結成」したことについて、P40に宮城輝夫と吉見庄助が1948年に「白石造型美術展」を創立し、1950年には「東北造型美術展」と改名して「地域をこえた活動」を行ったことについて、それぞれ記載されている。P43からP47の『エスプリ・ヌウボオ』の章においては、同グループの活動が記載され、佐藤英哉、宮城輝夫、加藤正衛、吉見庄助、昆野勝、狭間二郎、上田朗、佐々木あゆみ、佐々木正芳、新国誠一らの名前が現れる。P47からP48の『東北現代美術連合展』の章においては、吉見庄助、宮城輝夫、清野恒・克己兄弟、狭間二郎、ヨシダ・ヨシエ、昆野勝、岡本信治郎佐々木正芳、佐々木あゆみ、上田朗らの名前が現れる。P51からP53の『仙台アンデパンダン』の章においては、宮城輝夫、佐々木正芳、上田朗、加藤正衛、針生鎮郎、田辺和郎、石川舜、村上善男、松沢宥、小野忠弘、岡本信治郎池田龍雄、豊島弘尚、糸井貫二、鈴木光一らの名前が現れる。P54の『おわりに』においては、宮城輝夫、佐々木正芳、佐々木あゆみ、吉見庄助らへの協力に対する謝辞が述べられている。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「洋画」の章において、P77に「宮城輝夫の「陽炎狩り」と題する個展は、ガラス絵など新作五十二点の展観であったが、この画家特有の明快な神話的イメージの世界が存分に展開されていた。」という文がある。また、田辺和郎の個展についての言及もある。P77からP78にかけて、石川舜が東京の田村画廊において開催した個展「バルゼア(堆積原)未明―歪みの系譜」への言及がある。P78からP79にかけて、宮城県宮崎町(現加美町)で開催された「1990夏・宮崎町美術展」における石川舜の「パフォーマンスと関連した一種のライト・アート」についての言及がある。P83に石川舜「バルゼア」のモノクロ図版掲載。「各ジャンルの動向」の酒井哲朗(当時宮城県美術館学芸部長)による「彫刻」の章において、P88に高山登、翁譲への言及がある。P90に高山登インスタレーション」(宮城県美術館中庭)のモノクロ写真掲載。
B-VA-1991-002 続仙台画人伝 大林昭雄 1991 ギャラリー大林 P163に宮城四郎の略歴が掲載されている。ただし、「昭和二年 弘前高校中退。」とあるが、昭和4年が正しい。「昭和十年 独立美術展初入選以降三回入選。」とあるが、初入選は昭和12年であり、没後も入れると入選回数は4回である。「昭和十六年 新東北展「物故作家展」に乗馬が出品されている。」とあるが、昭和三十年が正しい。没年が「不詳」とされているが、昭和16年である。P166に加藤正衛の略歴掲載。また、P178に二宮不二麿、粟野耿介の略歴掲載。粟野耿介の項には「上田耕作先生のお話によると、門下生に中央画壇で活躍した針生とか、在仙画壇の石川俊などがいる」とあるが、上田はそれぞれ針生鎮郎 、石川舜を指して語ったのだろう。また、上田が(粟野は)「昭和十年頃に没したのではないだろうか」と話したとのことだが、これは「昭和六十年頃」の聞き間違いだろうか。P196に「昭和7年(一九三二)「第1回蒼穹会洋画展」六月四日~六日宮城四郎、小高根二郎、安田豊など」という記載あり。他、P208に「第六回東北美術展」(昭和16年)の出品者の一人として宮城輝夫の名前が挙げられている。
B-M4MT-1994-001 自伝 弛みなき道程 吉見庄助 1994 吉見庄助 「第三章 青春時代 希望―栄誉―苦杯」において、「川端画学校時代(第一次東京時代)」の「入隊準備の為の帰郷」のP83に、「白石に於ける、洋画グループそして洋画展の始まり」である「無名会」のメンバーとして宮城四郎の名前が挙げられる。同ページに掲載されている集合写真のキャプションには、「不佐 宮城」とあるが、これは「不在」の誤記であろう。同じく第三章、「帰休除隊・苦難の時代(第二次東京時代)」の「白石の生活」のP125に、「当時中学生として美術活動に熱心だった宮城輝夫君」らに川端画学校で知り合った友人の「Y君」を紹介したことが記されている。「第八章 定年退職」において、「三島学園二十年の私の芸術活動」のP417に、「昭和四十九年五月」に発行された『宮城四郎・宮城輝夫の人と芸術』を吉見が記した経緯が簡潔に記されている。P417からP418にかけて、東京銀座ギャラリーで昭和50年7月に開催された『七六吉見庄助展』の紹介文『吉見庄助展に期待するもの』が転載されている。当時東京都美術館学芸部長だった朝日晃による同文中、P418に「…東北の地で「エスプリ・ヌーボー」の旗揚げに参加している。その周辺には宮城輝夫の名もある。」という記載がある。また、同ページには、(朝日が)吉見庄助のことを「村上善男をとおして知った」という記載もある。
B-M4MT-1996-001 仙台市史 特別編3 美術工芸 仙台市史編さん委員会編 1996 仙台市 3章『近代・現代』の『一.仙台の近代絵画・彫刻』の『5.昭和』を宮城県美術館副館長を務めた西村勇晴が執筆。この文中、P351、P355で宮城四郎、宮城輝夫に触れている。P355において、宮城輝夫の「弟の宮城四郎」と記載されているが、宮城四郎は宮城輝夫の兄である。同ページには、宮城四郎『氷原』、宮城輝夫『踊り子』のカラー図版が小さく掲載されている。巻末『掲載資料一覧』のP574に簡単な図版の説明あり。
B-M4MT-1999-001 ばら藤の仲間たち 人・百年の刻み 白石高等学校創立百周年記念実行委員会編 1999 清水書院 恩師のおかげ―忘れられない母校の校舎―」のP125に、それぞれ、宮城輝夫が師事した美術部顧問で歌人の野地曠二(渡部又三郎)への言及がある。第二節のP77-85の「11 マタカン先生」の章に、野地曠二(渡部又三郎)の紹介文や卒業生の回想、野地の短歌等が掲載されており、遠藤智「A マタカン先生・渡部又三郎(湊又三郎)―現代短歌の灯を白石に―」において、P78とP79-80に、宮城輝夫による恩師の野地曠二(渡部又三郎)についての証言が掲載されている。第一部 の「第二章 先輩と後輩」の「第一節 畏敬の肖像」のP148-150に「彫刻家・小室達―木馬会の友情にこたえる」という文章が掲載されており、宮城四郎・輝夫兄弟の兄である宮城秀夫も所属していた白石中学校第15・16回生の親睦団体「木馬会」と小室のつながりや小室の白石での寮生時代の様子が記されている。第一部の「第三章 人生を刻む」の「第二節 道ひとすじ」の跡部登喜郎「57 シリーズ「夢幻聴」―創作に生命の根源を追う―」のP226に、跡部が高校時代吉見庄助に師事したことや、宮城輝夫、吉見庄助らが所属した美術団体「エスプリ・ヌウボオ」とその後継団体「東北造形美術」に跡部も参加したことが記されている。同じく第三章の「第五節 時の光」のP253に宮城輝夫「68 随想録(アナレクタ)―鎌鼬・水鶏・セルテル水・カンタリス・ぬえ・玉垂れ・プルキリエ氏の現象―」掲載。題名に挙げられた7つの言葉について、それぞれ短い説明が箇条書きにされた、辞典の抜粋のような文章である。輝夫の高校時代の記憶から想起された言葉が選ばれているのかもしれない。後藤彰三「第二部 遥かなる人脈―鎮魂の碑―」の「芸術に魅せられて」のP465に宮城四郎の簡潔なプロフィールが掲載されている。同P465-466に平井弥太郎の、P466に大泉茂基のプロフィールもそれぞれ掲載されている。また、同文章中、「白石文化草創期の木馬会」のP468ー469に小室達のエピソードが記され、P469には宮城四郎・輝夫の兄である宮城秀夫の簡潔なプロフィールが掲載されている。
B-VA-1999-001 宮城県芸術年鑑平成10年度 宮城県環境生活部生活・文化課編 1999 宮城県環境生活部生活・文化課 「特集この人にきく(その二)」というインタビュー企画のうちの一つとして、P12-18に当時宮城県美術館学芸部長の西村勇晴が聞き手を務めたインタビュー「宮城輝夫氏にきく」が掲載されている。写真、映画上映、俳句等、絵画制作に留まらず、戦前からの多岐にわたる表現活動について語っている。また、川口軌外、瀧口修造、吉見庄助、佐藤英哉ら関わってきた表現者たちへの言及も多い。インタビュー中、P12において「六人兄妹だけど、生き残っているのは僕と妹だけになってしまったね。絵を描かないのは一人もいないです。中でも、俺のすぐ上の四郎兄貴が非常に絵が好きでね。俺に「お前絵描きになれ、一生俺が面倒見るから」って。それでね、絵描きになることが決まったわけです。中学一、二年生ぐらいの時かな。」と宮城四郎に言及している。他、P17において、「糸井貫二に「仙台のアンデパンダンに参加してくれないか」っていったら、彼も「まってました」とばかりに大賛成で、参加してくれたんですよ。彼はね、イベンターっていうか、日本の草分けの人じゃないかなぁ。」と語っている。やはり西村勇晴による「各ジャンルの動向」の「洋画」の章では、P50に「宮城輝夫も二年ぶりに晩翠画廊に作品を並べ(二月十七日~三月八日)」と輝夫の個展について言及がある。他、P60に翁ひろみ、P99に佐藤鬼房の名前がある。
E-M4MT-2000-001 「TOHOKU/TOKYO 1925~1945」展図録 2000 読売新聞社、美術館連絡協議会 2000年2月26日から3月26日に板橋区立美術館にて開催された『シリーズ Art in Tokyo No.11 TOHOKU/TOKYO 1925~1945 相克のモダニズム』展図録。P10「図版」の中扉に、清野克巳、清野恒、狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の名前がある。P36に清野恒『大地の樹』の、P54に清野恒『山』の、P62に宮城四郎『風景』の、P67に清野克巳『作品No.1』の、P74に清野克巳『コラージュNo.1』の、P87に狭間二郎『東北の野』の、P99に宮城輝夫『踊り子』の、それぞれカラー図版掲載。尾﨑眞人『「親愛なる椎の若葉よ、君の光の幾部分かを僕に恵め」』中、P109とP110に清野恒について、P110に清野克巳について、それぞれ言及されている。「作家略歴」中、P117に吉見庄助の、P122に清野克巳、清野恒の、P127に狭間二郎の、P128に樋口加六の、P131に宮城四郎、宮城輝夫の、それぞれ略歴を掲載。宮城四郎の略歴に「1926 白石中学校卒業。」とあるが、1927年が正しい。「1927 旧制弘前高校入学」とあるが、1928年が正しい。「1928 病気のため同校中退」とあるが、1929年が正しい。「1930 弘前高等学校理科乙類に入学」とあるが、1927年が正しい。また、前述の「旧制弘前高校入学」と重複した記述である。「1932 東北大学文学部美学研究室聴講生として、阿部次郎のもとで美学を研究。」とあるが、1935年が正しい。「1934 第2回河北美術展(以後第3-5回展出品)」とあるが、「東北美術展」の表記が正しい。1942年に「故宮城四郎画伯遺作展(東北大学美術部〈採光会〉主催)」とあるが、これは「彩光会」の誤記である。宮城輝夫の略歴で1937に「前衛写真協会結成に参加し」、「主な個展、展覧会」にも「1937 新造形美術協会(名古屋)」と記載されているが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、同協会に宮城輝夫が参加したのは「1939年頃」とのことであり、検討が必要である。「作品リスト」中、P134に清野克巳、清野恒の、P135に狭間二郎、宮城四郎、宮城輝夫の作品情報が、それぞれ掲載されている。
N-M4MT-2002-001 河北新報平成14年1月25日 2002 河北新報社 佐々木正芳による追悼文「宮城輝夫さんをしのんで」と宮城輝夫作品「エスキース135」(1982年)モノクロ図版掲載。佐々木が輝夫との思い出を語る。「白石の宮城医院に生まれた宮城さんは、兄の四郎さんの影響で画家を志し、」との記述がある。
B-M4MT-2003-001 狹間二郎のデッサンと木版画 菊地義彦編 2003 菊地義彦 P46の木版画のキャプションが「塔のある風景(宮城四郎と共に油彩でも描いている)」となっている。P57『狭間二郎百年の記録 生誕百年記念「デッサン・木版画集」の資料として 菊地義彦』と題した文中、宮城県美術館で1987年に開催された企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』についての言及がある。また、年譜内では、それぞれ以下の記述がある。P65、1937年に「宮城四郎と独立展初入選を記念して、仙台市国分町の工芸社ギャラリーで「二人展」を開く。」と記されている。P66、1941年に開催されていた裸婦写生会「独立講習会」の参加者の一人として宮城輝夫が挙げられている。P79、1987年の宮城県美術館企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』展の説明に「狭間二郎、樋口加六、宮城四郎、三氏の作品各二十点を展示。」の記述あり。
B-M4MT-2005-001 野獣派の画家狹間二郎の画業 菊地義彦編 2005 栗原市教育委員会 菊地義彦「独立美術協会会員狭間二郎の足跡」中、「三、『独立展』初入選と中央画壇への飛躍」のP7、第七回独立展について語る箇所に「この年宮城県からは門脇耕、宮城四郎氏等も入選し」、「四、上京して樋口加六・林武・野口彌太郎に師事」のP7-8に「中央画壇への足がかりをつくった狭間は、共に独立展への入選をはたした宮城四郎と共にで、初入選を記念して仙台市国分町の画廊で「二人展」を開き」、とそれぞれ記載されている。「七、一迫で制作し独立美術協会会員となる」のP14において、昭和16年常盤木学園で行われた第一回「独立講習会」の裸婦写生会参加者の名前が挙げられる中に宮城輝夫の名前がある。他、P17とP19に針生鎮郎への言及がある。P70-91に「狭間二郎年譜(平成十七年六月現在)菊地義彦編」掲載。管理番号B-M4MT-2003-001『狹間二郎のデッサンと木版画』掲載の年譜を更新したものであり、年譜の下に掲載された写真と作品図版も前掲書とは異なっている。本年譜内に、それぞれ前掲書の年譜と同じ、以下の記述がある。P74、1937年に「宮城四郎と独立展初入選を記念して、仙台市国分町の工芸社ギャラリーで「二人展」を開く。」と記されている。P75、1941年に開催されていた裸婦写生会「独立講習会」の参加者の一人として宮城輝夫が挙げられている。P88、1987年の宮城県美術館企画展『独立美術の3人狭間二郎・樋口加六・宮城四郎』展の説明に「狭間二郎、樋口加六、宮城四郎、三氏の作品各二十点を展示。」の記述あり。
M-VA-2012-001 S-meme04現代美術と地域 五十嵐太郎発行者、出原日向子、伊藤幹、大内まさ敏、大沼久美、川村亨太、筒井としい、斧澤未知子編集制作 2012 せんだいスクール・オブ・デザイン P72-75に、宮城四郎・輝夫兄弟の活動を中心に据えて、戦前から仙台アンデパンダン展までの宮城県の芸術活動の流れを大まかに追った、鈴木直樹「宮城県現代美術百年史[前編]」掲載。文中、吉見庄助、石川舜、針生鎮郎、加藤正衛、新國誠一、昆野勝、翁ひろみ、糸井貫二、鈴木光一、上條順次郎、鈴木征一、永寿慎一、豊島重之、橋本章らについて触れている。他、P44-47、梅森靖夫「カケスの森のカサ・ブランカ|中本誠司現代美術館が目指しているもの」に中本誠司現代美術館の今野純市館長へのインタビュー掲載。P48-51、森谷千夏「地域におけるギャラリーのあり方|仙台アンデパンダン展を通して」に「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催までの経緯と概要が記載されている。文中、P49の「二〇一二・仙台アンデパンダン展」開催の「背景」の説明において、「ゼロ次元の加藤好弘氏から関本氏に、「仙台で何かやりたい」という提案があったのと同時期に、SARPの青野氏が、ダダカン糸井貫二)氏を絡めた展示を企画したいと考えていた。」、「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」という思いから、加藤氏とダダカン氏が「読売アンデパンダン」などを活動の場としていたことより「二〇一二・仙台アンデパンダン展」という発想に至った。」(「やるならば若手の作家を絡めた展示をやりたい」の部分の最初の鍵括弧がないのは原文ママ)という文がある。文中に出てくる「関本氏」、「青野氏」はそれぞれ、関本欣哉、青野文昭のこと。P66-71、田多知子「表出する表現|仙台の美術 2001-2012」が、青野文昭、大嶋貴昭、椎名勇仁らに触れている。
E-VA-2017-001 コレクション再発見東北の作家たち|洋画/版画 宮城県美術館(菅野仁美、小檜山祐幹、和田浩一)編 2017 宮城県美術館 2017年4月29日から7月17日に宮城県美術館で開催された同展図録。P4の謝辞に、宮城輝夫の息子であり、工作舎アートディレクターの宮城安総や高山登の名前が見える。P15「第1章 東北のモダニズム」説明文内に狭間二郎、宮城四郎の名前が挙がる。P39に狭間二郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『東北の野』カラー図版掲載。P40に宮城四郎の作家解説(小檜山祐幹筆)と『風景』カラー図版掲載。しかし、作家解説の「1932(昭和7)年に東北大学文学部美学研究室の聴講生となり」という記載は1935(昭和10)年が正しい。P41に宮城輝夫の作家解説(菅野仁美筆)と『踊り子』カラー図版掲載。ただ、作家解説内に「1937年にはシュルレアリスム系の新造形美術協会や前衛写真協会に加わった。」とあるが、「日本のシュールレアリスム Surrealism in Japan 1925-1945」展図録によると、前衛写真協会に宮城輝夫が参加したのは、「1939年頃」とのことで、検証が必要である。P43に村上善男の作家解説(菅野仁美筆)と『Polymerization-N-V(W)の場合、または腔内弾道学』カラー図版掲載。P45「第2章 版画と東北」説明文内に高山登の名前が挙がる。P66に高山登の作家解説(小檜山祐幹筆)と『サンライズサンセットD-1』、『サンライズサンセットD-2』、『サンライズサンセットD-3』カラー図版掲載。P67「第3章 8人の作家」説明文内に宮城輝夫、高山登の名前が挙がる。P74、菅野聖子の作家解説(和田浩一筆)内に「仙台出身でコンクリート・ポエトリーの詩人、新國誠一が主宰するASA(芸術研究協会)にも参加した(1966年退会)」との記述がある。P78,79に高山登の作家解説(和田浩一筆)と『首のない風景』、『のっぺらぼう1』、『のっぺらぼう2』、『のっぺらぼうA』カラー図版掲載。P80,81に宮城輝夫の作家解説(和田浩一筆)と『毛の目の漢たち』、『月の番人』、『陣営(夜ごとの夜シリーズ)』カラー図版掲載。P84-87にそれぞれの作品リスト掲載。

糸井貫二(ダダカン)関連資料3(1996-2021年発行/発表分)

最終更新:2024年3月12日(最新の更新箇所は赤字で記載)
前回更新(2023年8月26日)の更新箇所は青字で記載。
補足:
・自分が現在把握している資料をざっと洗い出したところ、まだまだ多くの資料があるため、今後少しずつ更新して充実させる予定です。
・部屋の中で自分の身体の近くにあって、ある程度記述内容の真偽を確認できた順に資料の情報をUPしていきます。UPする資料情報の順番について、その他に特別な意味はありません。
・本関連資料一覧を作成する上で、上原誠一郎氏提供の労作「ダダカン関連書誌」(管理番号:O-IK-2008-003)が大いに参考になりました。上原さんのご尽力に敬意を表すと共に、感謝を申し上げます。

管理番号 資料名 著者名 出版年 出版者 備考
M-IKMT-1996-001 Quick Japanクイック・ジャパンVOL.6 赤田祐一編集発行人、村上清編集 1996 太田出版 P133-147に竹熊健太郎竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道前編』掲載。竹熊が雑誌や新聞、書籍を通して知った糸井貫二の情報と、「Kという男」から聞いた糸井が美術展に出品した作品の話を記している。しかし、「糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)によると、P140に掲載されている「Kという男」が観た作品について上原誠一郎が糸井本人に確認したところ、糸井がそのような作品を出品した事実はないとのこと。他、糸井について語る宮城輝夫、水上旬へのインタビューをそれぞれ収録している。輝夫のインタビュー中で、P142に宮城が勤めていた大学名が「三島大学」となっているが、正式な名称は「三島学園女子大学」。また、同ページにおいて輝夫が「よくダダカンも大学にフラッと現れて「儀式」をやっていったんですね」と語っているが、生前筆者が糸井に確認したところ、糸井は三島学園女子大学には一度も行ったことがないそうで、首を傾げていた。その後に続けて、三島学園女子大学の学生による、来場者が皆、蜘蛛の巣に絡み取られるパフォーマンスが面白かった(前述の管理番号O-VA-2008-001の資料8ページ目、1969年1月2日にも「三島女子美生二名によるくもの巣ハプニング観客、出席者全員からみとられる」と記載あり)と思い出を語っていたため、輝夫が、大学の学生の展示会等と言いたかったのを言い誤ったか、竹熊の聞き間違いの可能性がある。前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、P143に掲載されている「ダダカン師から芸術家水上旬氏に宛てて郵送されたメールアート」のうち、③は糸井作ではなく、石川舜の作品であるとのこと。
M-VA-1996-001 Quick Japanクイック・ジャパンVOL.7 赤田祐一編集発行人、村上清編集 1996 太田出版 P4に赤い貫頭衣を着て歩く(走る?)糸井のカラー写真が掲載されている。この写真に「pic:羽永光利」とキャプションが付いているが、この写真は羽永光利が撮影したものではない(黒ダライ児「肉体のアナーキズム」P15に掲載された同写真のキャプションでは、「撮影者不明」となっている)。P169-192に竹熊健太郎竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道後編』掲載。竹熊と糸井の手紙のやり取り、竹熊と編集者の赤田祐一が糸井の自宅を訪問して行ったインタビューの内容が記されている。また、豊島重之へのインタビューと「ダダカン儀式年譜」が掲載されている。豊島はインタビューで仙台西公園野外アートフェスティバルについて触れており、「石川舜という画家がいまして、彼が若手中心の「仙台野外展」を開催するというので、市内のあちこちに看板を立てたわけですよ。」と語っている。以下、P180-181の「ダダカン儀式年譜」への指摘。1932年の記載「成城中学に入学。」は「糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)および「ナラティブの修復」(管理番号:B-VA-2022-001)によると1933年である。1944年の記載「軍の命令で九州で炭鉱夫や戦車隊の補充兵として働く。」は1945年が正しい。1951年の記載「三月 第三回読売アンデパンダン展に初出品。「彩色した卵のオブゼ」。」は「第三回日本アンデパンダン展」が正しい。また、開催期間は2月27日から3月18日であり、出品作の正式名称は「たまご」である。1958年に「三月 第一〇回読売アンデパンダン展「ガラス絵の版画・箱」」と記載されているが、この時の出品作は「無動」、「無位」(以上、絵画の部)、「菩薩」、「ぶどうと子供」、「芽」(以上、版画の部)、「放射能」、「宇宙人」(以上、彫刻の部)。1959年に「三月 第一一回読売アンデパンダン展「鳩舎」」と記載されているが、この時の出品作は「非常」(以上、絵画の部)、「パートタイマーのうた」(以上、版画の部)、「鳩飼いし頃」(以上、彫刻の部)。1960年に「三月 第一二回読売アンデパンダン展「ネハン堕堕」他。」と記載されているが、この時の出品作は「涅槃達陀」、「障子」、「えだ」(以上、絵画の部)、「阿字観」、「「行動だ」」、「間」(以上、彫刻の部)。1961年に「一二月 第一三回読売アンデパンダン展「出た!ビートニックが」「ダダカン宣言」」と記載されているが、「三月」が正しい。また、この時の出品作は「ダダッ子貫ちゃん」、「作品-3」(以上、絵画)、「個展」(以上、彫刻)。1962年に「英雄たちの大集会」開催地が「百地海岸」と表記されているが、「百道」が正しい。1963年に「三月 第一五回読売アンデパンダン展「ダダカンの鞄」。」と記載されているが、この時の出品作は「ダダカンの鞄」と「43才になつた一匹狼」。1964年に「九月 仙台アンデパンダン展に「メット」出品」と記載されているが、出品作の正式名称は「ゼロの男」である。1966年に「八月 大徳寺参禅管長とホモ問答(京都・烏丸通)。」と記されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、上原誠一郎が糸井本人に確認したところ、この事実はないとのことである。1967年に糸井がパフォーマンスを行った場所として、「新宿西口フーテン広場」と表記されているが、「東口」が正しい。1970年に「四月 「手配犯人風全裸逃げ」(大分県中津駅前。指名手配中の犯人にダダカンが誤認され、警官から裸で逃げ回る)。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、「全裸」ではなかったとのことである。1971年に「四月 豊島重之演出の映画『高野聖』に出演。」と記載されているが、前述の管理番号B-VA-2022-001の資料によると、これは1970年12月のことである。1971年に「長年親戚の家で病に伏せていた母親の処遇につき、「もし病母の意思に反して強制入院させるのであれば医療費の送金を打ち切り、手持ちの全財産を焼却する」と親戚に通告。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、この事実はないとのことである。1971年に「九月 「一千万円焼却儀式スタート」スタート。妹宛てに半焼けの一万円札五枚送付。芸術家さいとうよしあき氏に焼札五万円。同じく水上旬氏に焼札五万円。親戚が詫びを入れ儀式中止。」と記載されているが、前述の管理番号O-VA-2008-001の資料によると、「水上旬氏に焼札五万円。の部分以外はこの事実なし」とのことである。しかし、前述の管理番号B-VA-2022-001の資料では、略年譜中、P157に「9月 《一千万円焼却儀式》を開始。さいとうよしあき、水上旬に半焼札5万円を送る。」と記載されている。他、読者からの手紙掲載コーナー「LETTERS」P199に、前号の糸井についての記事の感想を書いた手紙が2通掲載されている。そのうち1通の内容は以下のとおり。「(前略)ダダカン氏の記事には感じ入りました。記事中の仙台在住の宮城輝夫氏は、私の記憶が正しければ、私の実家の近所にいらした方ではないでしょうか?地元では、KENZOというケーキ屋さんのイラスト描いてたりしたと思うんですが……。ちょっとなつかしい。」
B-IK-1998-001 日本・現代・美術 椹木野衣 1998 新潮社 「第六章バリケードのなかのポストモダン」のP133-38に高山登への言及がある。P173-198、「第八章裸のテロリストたち」において、日本の裸体芸術の思想や、日本へのダダの導入と禅への関係性を論じる中で、糸井貫二を大きく取り上げている。註のP365の[50]、P367の[55]にも糸井への言及がある。
B-VA-1998-001 箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝 竹熊健太郎編著、北尾修一編 1998 太田出版 Quick Japanクイック・ジャパンVOL.6」(管理番号:M-IKMT-1996-001)、「Quick Japanクイック・ジャパンVOL.7」(管理番号:M-VA-1996-001)に連載された『竹熊健太郎のみちのく紀行'96伝説の聖人糸井貫二師を求めてダダの細道』を改稿した「糸井貫二ダダの細道」掲載。雑誌掲載時からの大きな変更は以下。「「お金」の想い出」の章が追記されている。宮城輝夫、水上旬の談話の前後に文章が追記されている。「ダダカン儀式年譜」は再録されていない。また、掲載写真点数も少なくなっている。「『クイック・ジャパン』と『箆棒な人々』(あとがき)」の中でも、P339、P350に、糸井への言及がある。
M-IK-1998-001 Quick Japanクイック・ジャパンVOL.21 村上清編集人、大塚幸代、大久保保太郎編 1998 太田出版 P10-11に竹熊健太郎『幻の裸体行動芸術家・ダダカン再訪記その1』掲載。竹熊が「クイック・ジャパン」VOL6とVOL7に掲載した糸井記事の要約と、再訪にいたるまでの竹熊と糸井の手紙のやり取り、糸井宅の玄関のドアを開けるまでが記されている。P122-123に、竹熊健太郎『幻の裸体行動芸術家・ダダカン再訪記その2』掲載。糸井が竹熊と赤田祐一の前で、裸の三点倒立パフォーマンスを行い、京都の息子に会いに行ったエピソード等を語る様子が記されている。三点倒立パフォーマンスを行う様子のカラー写真が掲載されている。P124に、竹熊健太郎『戦後サブカルチャー偉人伝箆棒な人々』のカラー広告掲載。ここにも、裸でポーズをとる糸井のカラー写真と簡単なプロフィールが掲載されている。
M-IK-1998-002 波1998年1月号(通巻第337号) 1998 新潮社 針生一郎の書評「『日本・現代・美術』を読む。」のP35に、椹木野衣『日本・現代・美術』の内容に関して、「こうして、九〇年代では抽象日本画と平行的にアニメ風少女を「再現」する村上隆、木製の牛乳箱を画廊にみたて、他人に使用をゆだねた上で街頭に配置する小沢剛ら、八〇年代では森村泰昌、原口典之、高山登ら、七〇年代では「美共闘」「もの派」と糸井貫二、「ゼロ次元」などの反博パフォーマンス、六〇年代では赤瀬川源平の千円札裁判がとりあげられる。」という文がある。
B-IK-1999-001 毎日ムック シリーズ20世紀の記憶連合赤軍・“狼”たちの時代1969-1975 西井一夫編集長 1999 毎日新聞社 大阪万博」のP100に掲載された8枚の写真のうち1枚は、万博会場で警官に連行される糸井貫二の写真。「「太陽の塔」下でストリーキングを敢行、捕まった男、まさしくそこは広場だった…1970年」とキャプションが付されている。
B-IK-1999-002 アヴァンギャルド60’s 吉岡康弘 1999 新潮社 『六〇年代・覚え書』の「読売アンデパンダン展の終焉」の章のP195に、糸井貫二が1962年の第14回読売アンデパンダン展に出展して撤去された作品「自家発電」のモノクロ写真が掲載され、「左=糸井寛二(ダダカン)」というキャプションが付されている。実際は同ページの左側に篠原有司男が作品と共に写る写真が掲載されており、糸井の作品は右側に掲載されているが、キャプションの左右の表記は逆になっている。第14回アンデパンダン展について記された同章のP196で、撤去作品が「会場の隅へ隠し込まれていた」光景の描写中、「そこには初日に撤去された糸井寛二の皮鞄と覗き箱、自慰に耽るお姫様のコラージュ作品も置かれていた。」という一文がある。『六〇年代・覚え書』の「大阪万博岡本太郎」の章のP284に、岡本太郎への批判に続けて「赤ヘルの青年が『太陽の塔』を占拠したのだ。糸井寛二はその回りをふりちんで疾走していた。儀式屋はどっこい生きていたのである。」と記載されている。なお、本書において糸井の名前は3箇所とも「寛二」と誤記されている。なお、本書は永寿日郎によって企画されたものである。
B-VA-1999-001 宮城県芸術年鑑平成10年度 宮城県環境生活部生活・文化課編 1999 宮城県環境生活部生活・文化課 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号B-VA-1999-001参照。
B-IK-2002-001 泡沫桀人列伝知られざる超前衛 秋山祐徳太子 2002 二玄社 P15-17に「裸の鈴鳴り神社“狂気なる紳士”上條順次郎氏の巻」、P22-25に「発狂の夜皇帝“ゴールデン街の泉”永寿日朗氏の巻」、P105-108に「汚物芸術家“その後は名門料亭板前長升沢金平氏の巻」、P171-174に「酔犬芸術家“酔犬彫刻の無頼派”吉野辰海氏の巻」、P197-200に「ダダ・カン“タンポポの神”イトイ・カンジ氏の巻」というエッセイがそれぞれ掲載されている。上條順次郎の章ではP17に「イトイ・カンジ」の名が現れる。イトイの章は、秋山による「通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい」(管理番号B-IK-1985-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料2(1973-1995年発行/発表分)ページ参照)の書籍と記載内容がかなり重複する。P200には、加藤好弘の個展に糸井から「饅頭が沢山届けられた」と記載されているが、添えられた写真に写っているのは、簡易包装の「萩の月」である。「ゼロ次元総帥“芸術テロとタントラ”加藤好弘氏の巻」のP205に上條順次郎の名前が現れる。
M-IK-2003-001 現代思想第31巻第2号2003年2月号特集=『帝国』を読む 池上善彦編集人 2003 青土社 「特集=『帝国』 を読む」のP154-167、小田昌教+ヲダマサノリ「見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗」において、「ムルチチュードの影を感じ、その影を慕いたくなるような人物」として、糸井貫二への言及が何度かある。P159に「七〇年代になると紙幣を焼却するということに没頭しはじめ、僅かな収入と極貧生活の中から捻出した金に火をつけ、焼け焦げたお札を作品としてあちこちに送りつけるようになった。」という記述があるが、誇張が入っている。「糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付)」(管理番号:O-VA-2008-001)によると、水上旬以外には焼けたお札をお札を送っていないという糸井自身の証言がある。また、「ナラティブの修復」(管理番号:B-VA-2022-001。糸井貫二(ダダカン)関連資料4(2022年以降発行/発表分)ページ参照)でも、略年譜中、P157にさいとうよしあき、水上旬に焼けたお札を送った事例が記載されているのみである。
B-IK-2004-001 空間の行間 磯崎新福田和也 2004 筑摩書房 「第十二回「お祭り広場」と三島由紀夫」という章の「両方とも結果的に挫折した」というセンテンスにおいて、福田和也が「三島の突きつけたものが本当に何かを変えたかというと、変えたようにも見えない」(P309)、磯崎新が(三島由紀夫岡本太郎の試みについて)「結果として両者は挫折したんだと思います」(P310)と批判した後、磯崎が以下のように語る。「ただ、三島由紀夫があれをどう見ただろうという事件が万博で起こった。ダダカンというパフォーマーが素っ裸で走った。なぜダダカンがあそこを走ったのかというと、ちょうど同じコースをオープニングで天皇が歩いたからだと僕は以前から思っているんです。「太陽の塔」の真っ黒の顔の前に天皇のロイヤルボックスがあって、僕のデメロボが来て煙を噴く。そこから小学生の鼓笛隊が飛び出て、花吹雪がぱっと降りる。この時の天皇のコースを、改めて走っている。日本共同体の天皇がいて、裸の男が走る。三島由紀夫はおそらく、ダダカン的なものに対する近さは持っていただろうと思うんだな。」。なお、「ダダカン」には以下の注釈が付いている。「前衛芸術家。本名糸井貫二。第三回読売アンデパンダン展に出品後、各地でハプニングを展開した。」
B-IK-2005-001 戦争と万博 椹木野衣 2005 美術出版社 P205-246に、「第七章ダダカンと"目玉の男"」掲載。糸井貫二の生涯と表現の軌跡を追い、その思想や性質を考察して日本の芸術史の中での位置づけを明らかにしようと試みる論考。P207に毎日新聞昭和45年4月27日夕刊の「太陽の塔"乗っ取り男"」についての記事抜粋の図版(糸井の全裸疾走についても簡潔に触れられている)、P209に「美術手帖1970年12月号」のP40から転載された糸井の写真と椹木のもとに送られてきた糸井のメールアート写真が掲載されている。「第六章そこにはいつも「石」があった」のP170とP173、「第八章万博と戦争」のP248にも「ダダカン」の名前が現れる。「註」のP313に、P170に初めて現れる「ダダカン」の言葉についての簡潔な説明あり。「註」のP319-326に第七章の註が掲載されている。P324に、糸井が六十年代初頭に陀田勘助を訪ねたというエピソードが紹介されているが、陀田勘助は1931年に没しているため、これはありえない。「主要参考文献」のP347に、「糸井貫二『手控』、自筆綴本、年代不詳」、「糸井貫二『行動記録』、自筆綴本、年代不詳」と記載あり。「参考図版クレジット」のP349にP207、P209に掲載された図版の情報掲載。なお、『糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付)』(管理番号:O-VA-2008-001)によると、P214に「ネハン堕堕」として説明されている作品は、実際は「阿字観」という作品であるとのこと。
B-IK-2005-002 超芸術 Art in Action 前衛芸術家たちの足跡1963-1969 The 1960s Avant-Garde Works and Profiles of Young Japanese Artist 平田実 2005 三五館 平田実の写真集。P118-119に掲載された、1968年、クロハタ・グループの「由比忠之進・ベトナム反戦焼身自殺の「追悼儀式」」の写真の左側に写っているサングラスをかけて合掌している男は、おそらく糸井貫二である。
B-IK-2006-001 松岡正剛千夜千冊第6巻茶碗とピアノと山水屏風 松岡正剛 2006 求龍堂 「10 伝統と実験のあと」の「第四三夜 日本という悪い場所 椹木野衣 日本・現代・美術 新潮社 一九九八」のP1216に、松岡が「いっときよく話しこんだ」世代のアーティストとして高山登の名前が挙がっている。「第八一八夜 煎餅も万年筆も都知事選も 秋山祐徳太子 泡沫桀人列伝 二玄社 二〇〇二」において、P1229で上條順次郎に、P1230で永寿日朗に、P1231で糸井貫二について、それぞれ言及している。
B-IK-2006-002 ゼロ次元 加藤好弘と六十年代 平田実 2006 河出書房新社 平田実の写真集。企画は永寿日郎。平田実「「ゼロ次元」と加藤好弘の足跡1964-1970」のP5に「加藤好弘、岩田信市と周辺の仲間たち」として挙げられる人物たちの中に上條順次郎、糸井貫二の名前がある。加藤好弘「芸術テロリスト・ゼロ次元全裸尻蔵儀式派集団のアンダーグラウンド行進業(※注:「業」の上に「ヨーガ」とルビ)」のP7に「ワニザメを飛び越えてドロップアウトをめざす白うさぎの物語に出演しているのは、万博・太陽の塔から小便を流す同志の下を一人全裸で疾走した日本パフォーマンス界の天才「ダダカン」こと糸井貫二」、「ゼロ次元を十年支えた主役、上條順次郎」、「儀式をプロデュースし後期タントラ儀式をうけおう永寿日郎」、「奇想のパフォーマー、クロハタの松江カクとは浅草キャバレー「花電車」、メーデー広場での「奇脳舌サーカス見世物小屋大会」など毎年一回の狂気見本市儀式屋顔見世大会での秘芸狂演で思想闘争の内実身体をダダカンと共に鍛えあった」という記述がそれぞれある。P35に、1967年の「ベトナム反戦行進(由比追悼」に参加した糸井貫二が警察官と並んでいる写真が2枚掲載され、「追悼儀式に参加したダダカン糸井貫二)が事情聴取をうける」というキャプションが付されている。P36-37に、『超芸術 Art in Action 前衛芸術家たちの足跡1963-1969 The 1960s Avant-Garde Works and Profiles of Young Japanese Artist』(管理番号:B-IK-2005-002)のP118-119に掲載されたのと同じ写真が掲載されている(糸井が写りこんでいる)。P40-41に、ベトナム反戦行進中のゼロ次元メンバーと糸井の写真が見開きで掲載されている。P97に映画「いなばの白うさぎ」撮影中で全裸の糸井、上條らの写真が掲載されており、「後列中央が糸井」とキャプションが付されていいる。P82、P88-91の写真に上條が写っている。、黒ダライ児「ゼロ次元とは何か」のP127にクロハタの「ベトナム反戦儀式」に「ゼロ次元と糸井貫二も参加」という記述がある。P128、「ゼロ次元・加藤好弘の軌跡」の「1967」に『奇脳舌サーカス見世物小屋大会』(代々木メーデー会場)、松江カク、糸井貫二も参加。」という説明がある。P130、映画「いなばの白うさぎ」の撮影現場で撮られた写真に、上條と永寿が写っている。(以上、ページ番号については、本書にページ番号が付されていないため、表1、表2を除いて仮にページ番号を付与して数えたものとなる。)
B-IK-2007-001 ブリキ男 秋山祐徳太子 2007 晶文社 「6万博破壊共闘派の芸術蜂起」のP139-142に「ダダカンさんは万博の金メダリスト」という文章が掲載されており、糸井が万博会場を全裸で疾走したエピソード等が紹介されている。また、2006年に秋山が糸井の自宅を訪問した際の談笑中のモノクロ写真が掲載されている。秋山の著書「通俗的芸術論ポップ・アートのたたかい」(管理番号:B-IK-1985-001)や「泡沫桀人列伝知られざる超前衛」(管理番号:B-IK-2002-001)の文章と内容はかなり重複する。他、P86とP247とP285に吉野辰海、P173に永寿日郎、P276に上條順次郎への言及がある。
B-VA-2007-001 箆棒な人々戦後サブカルチャー偉人伝 竹熊健太郎 2007 河出書房新社 1998年に太田出版から発行された同名の書籍(管理番号:B-VA-1998-001)の文庫版。「その後の箆棒な人々(文庫版あとがき)」と本橋信宏による「解説」が追加されている。「その後の箆棒な人々(文庫版あとがき)」では、87歳を迎えた糸井の近況が報告されており、糸井と若者の交流や長男との再会について記されている。また、「解説」でも糸井についての言及がある。
E-IK-2008-001 寺山修司劇場美術館 寺山偏陸監修 2008 PARCO出版 2008年に青森県立美術館郡山市立美術館で開催された「寺山修司 劇場美術館:1935~2008」展の図録。青森県立美術館学芸員の工藤健志による文章「寺山修司の現代性」のP2に、「いや、ひとり寺山のみならず当時活躍した多くの前衛芸術家たち、例えばゼロ次元、ダダカン土方巽唐十郎……、彼らは等しく「常識」から逸脱し、社会の禁忌をあえてとりあげ、根源的、本質的な人間の有り様を表現として問い続けていった。」という文がある。
F-IK-2008-001 ダダカン2008糸井貫二・人と作品鬼放展」パンフレット 2008 Les ales de la terra 銀座のギャラリーアーチストスペース(2008年9月8日~20日)と東高円寺のギャラリーPara GLOBE(2008年9月14日~27日)で開催された「鬼放展」(キュレーター:小坂真夕、鳥水亭木呂)と浅草木馬亭で2008年9月12日に開催された「ダダカンシンポジウム」のパンフレット。
M-IK-2008-001 美術手帖2008年12月号特集美術手帖60年史創刊60年記念特大号 美術手帖編集部 2008 美術出版社 「MAGAZINE IN MAGAZINE美術手帖の60年が一冊の雑誌として蘇る」のP172-173に「美術手帖1970年12月号のP40-41に掲載された糸井貫二の写真が再録されている。「REVIEWS」のP342にダダカン「鬼放展」の情報と展示作品のカラー図版が、P343に椹木野衣による同展評「色が行動を誘発するダダカンの紅い火照りと白い乾き」が、それぞれ掲載されている。
O-IK-2008-001 ダダカンさんと私 上原誠一郎 2008 上原誠一郎 A4用紙1ページ。2008年に開催された「ダダカン2008糸井貫二・人と作品鬼放展」の企画経緯が綴られた随筆的な文章。
O-IK-2008-002 ダダカンオブジェ論 ダダカンデュシャンの「ポルノ小屋」 上原誠一郎 2008 上原誠一郎 デュシャンの作品と糸井貫二のオブジェ作品の類似性に言及し、ハプニングに注目が集まりがちな糸井のオブジェ作品について評価の再考を主張する論考。A4用紙3ページ。
O-IK-2008-003 ダダカン関連書誌 上原誠一郎 2008 上原誠一郎 A4用紙2ページ。鈴木所有のものは、2008年3月15日更新版。糸井への言及がある、もしくは糸井の文章や写真が掲載されている38点の書籍・雑誌のリスト。
O-VA-2008-001 糸井貫二ダダカン)年譜・(家系図は別添付) 上原誠一郎 2008 上原誠一郎 A4用紙14ページ。鈴木所有のものは、2008年3月15日更新版。P1~P11:年譜、P12:家系図、P13:「「この事実なし」あるいはそれに準ずる2008年3月1日の年譜訂正の本人記述」と題された、これまでに発刊された糸井貫二関連の雑誌や書籍の記述に関する訂正の指摘、P14:「ダダカン問答記」と題された、いくつかの糸井へのヒアリング内容を記した文章。P7の西公園アートフェスティバルの記述に石川舜の名前が、P8の「さいとうよしあき企画ハプニング展」の来場者として宮城輝夫の名前が、それぞれ現れる。
B-IK-2009-001 真景 イメージ 田野倉康一 2009 思潮社 詩集。P16-21に掲載された詩「帰還」中、P18に、糸井貫二の行為に触発されて書かれた、以下の連がある。「劣化しないものは劣化する/殺すな/殺せ/百人のダダカンが駆け抜けてゆく/はだかの/太陽の塔/百メートルの銀座/ひんやりと風を切る/百人のはだかとなって/ぼくたちが走る/冬の墓域は空堀めいて奇妙に明るい/誰もぼくたちを知らない僕たちのイメージを/とりあえず駆け抜ける」
B-IK-2009-002 日本美術史ハンドブック 辻惟雄、泉武夫編 2009 新書館 「近現代」の「大正・昭和・平成美術」の半田滋男「〔概説〕近代美術から現代美術へ」の「アンデパンダンと反芸術」のP169に、「七〇年前夜には名古屋の加藤好弘のパフォーマンス集団《ゼロ次元》、都知事選に行為として出馬した秋山祐徳太子、仙台のダダカン=糸井寛二など、「行為」を手段とする人々の過激な活動が目立っている」という記載がある。このページと「人名索引」のP216共に、糸井の名前は「寛二」と誤記されている。
E-VA-2009-001 「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」パンフレット 大嶋貴明、三上満良、和田浩一/宮城県美術館学芸部 2009 宮城県美術館 2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展のパンフレット。加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二新國誠一佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の出品作品リストと略歴が掲載されている。
F-VA-2009-001 「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」フライヤー 2009 宮城県美術館 2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展のフライヤー。A4両面カラー。表面には、宮城輝夫の作品『有尾人(アルシブラ)』をトリミングして用いた企画展のビジュアルイメージと企画展の基本情報、加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二新國誠一佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前を掲載。裏面には、羽永光利による糸井貫二の「路上儀"殺すな"」写真他、8点の出展作品のカラー図版、説明文、企画展の関連事業情報等を掲載。
M-IKMT-2009-001 東北文化友の会会報『まんだら』第41号 赤坂憲雄、岸本誠司責任編集 2009 東北芸術工科大学東北文化研究センター P46-48に、小池浩一「特派員レポート1前衛のアイコン、ダダカン健在」掲載。糸井の住む鬼放舎を椎名雄仁と訪問した経緯や、椎名がパフォーマンス「殺す菜」を糸井の前で披露したこと等を記している。P48に、宮城県美術館で2009年に開催された「前衛のみやぎ」展において糸井の展示の「となりには宮城輝夫氏の作品があり、平成の時間を共有しているのがいい。」という記述がある。
M-VA-2009-001 仙台市市民文化事業団情報誌ARSEN[アルセン]2009.7vol.73 仙台市市民文化事業団編 2009 財団法人仙台市市民文化事業団 「art review やんや」というコーナーに、歌人の佐藤通雅が「これこそが前衛……」というタイトルで「前衛のみやぎ」展(宮城県美術館)のレビューを寄稿している。同展の印象の他、学生時代に仙台アンデパンダン展のアルバイトを行った佐藤が、宮城輝夫の家に作品搬入に行ったり、会場で糸井貫二が作品を展示する様子を見た思い出を記している。「機会があるたびに見てきた」作家として、井出則雄、佐々木正芳、石川舜、中本誠司らの名前も挙げている。
N-VA-2009-001 河北新報2009年7月2日 2009 河北新報社 宮城県美術館学芸員(当時)の三上満良による紹介記事「宮城県美術館特別展前衛のみやぎ昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」掲載。「前衛のみやぎ」展と、その出展作家を紹介している。宮城輝夫、糸井貫二の解説に多く文字数が割かれており、宮城輝夫「有尾人(アルシブラ)」と羽永光利撮影の糸井貫二の路上儀「殺すな」写真のモノクロ図版が掲載されている。他、出品作家として石川舜らの名前も挙げられている。
N-IK-2009-001 河北新報2009年7月28日 2009 河北新報社 「フィールド・ノート」欄に、生活文化部の喜田浩一による「社会に挑んだ前衛芸術家たち」というタイトルのコラムが掲載されている。宮城県美術館で開催された「前衛のみやぎ」展について書かれた文章中、「強烈だったのは糸井貫二さんが胸にぶら下げた「殺すな」の文字を写した白黒写真。過激なパフォーマンスで「ダダカン」の異名を取った異才ぶりを象徴する。」という文がある。他、佐々木正芳や針生一郎についても触れている。
O-VA-2009-001 「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」案内状 2009 宮城県美術館 2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展の案内状。ポストカード型で両面に展覧会情報が印刷されており、2名までの招待券として使用できるもの。また、表面に加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二新國誠一佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前が記載されている。鈴木が所蔵しているのは糸井貫二から郵送されてきたもの。裏面に「2009.6.17ダダカン」と記され、50円郵便切手(2008年7月23日に発売された「はろうきてぃ」のグリーティング切手。ハローキティ十二単を着ているもの)が貼られている。
O-VA-2009-002 「前衛のみやぎ 昭和期芸術の変革に挑んだ表現者たち」入場券半券 2009 宮城県美術館 2009年6月20日から8月16日に宮城県美術館で開催された企画展「前衛のみやぎ」展の入場券半券。、宮城輝夫の作品『有尾人(アルシブラ)』をトリミングして用いた企画展のビジュアルイメージと企画展の基本情報、加藤正衛、宮城輝夫、糸井貫二新國誠一佐々木正芳、石川舜ら15人の出品作家の名前を掲載。裏面には宮城県美術館の地図・アクセス情報、観覧の注意等を掲載。
B-IK-2010-001 1968年文化論 四方田犬彦、平沢剛編著 2010 毎日新聞社 黒田ライ児「美術家の「表現行為」1968-1970〈万博破壊共闘派〉を中心に」において、「一九六八年、「現代美術」の状況」のP76、「万博破壊共闘派・前史」のP84、「今日の「運動」につながるもの」のP91でそれぞれ、糸井貫二に言及している。
B-IK-2010-002 仙台 本のはなし 24人でつくりました 仙台文学館ゼミナール2009-2010本作りワークショップ 有限会社荒蝦夷編集協力 2010 仙台文学館 小池浩一「90歳の前衛芸術家糸井貫二を訪ねる」が掲載されている。同記事は小池による糸井へのインタビュー「インタビュー・ウィズ・ダダカン」(P110-116)と森繁哉による文章「その人とあった、」(P116-117)から成る。インタビューでは、糸井が俳石や飯田岳楼、結婚や戦争体験を含む生い立ち、仙台でのパフォーマンス、大阪万博会場での全裸走等について語っている。
B-IK-2011-001 せんだいノート ミュージアムって何だろう? 仙台市教育委員会監修、仙台・宮城ミュージアムアライアンス(SMMA)編著 2011 財団法人仙台市市民文化事業団 P89-96に「糸井貫二 一期一会」と題して、今井紀彰によるカラー写真を多数掲載。自宅「鬼放舎」にて、談笑し、コーヒーを淹れ、ダダカンケーキを切り分ける糸井の姿が写されている。P96には糸井のプロフィールが掲載されている。
F-IK-2011-001 「『ダダッ子貫ちゃん』仙台上映会」フライヤー 2011 竹村正人 2011年10月7日に超五感cafe&gallery パンゲアで開催された竹村正人監督のドキュメンタリー映画『ダダッ子貫ちゃん』上映会のフライヤー。
M-IK-2011-001 砂漠Vol.1「食べる」 砂漠編 2011 砂漠 ZINE。P5、「特集食べる」の扉に、花崎草から贈られた「量販用マスクで作られたベスト」を着た糸井貫二の全身写真がコラージュされている。P6-13に糸井貫二へのインタビュー「ダダカンインタビューわからんものは食べないですよ 聞き手=中里勇太」掲載。震災後の生活、食事、宮城県美術館で開催された「前衛のみやぎ」展を訪れたエピソード、この頃頭を打って体調不良が続き、倒れて病院へ連れて行かれたエピソード等を糸井が語っている。なお、P12の糸井の発言中の「古い傷を見せられて」は「古い地図を見せられて」の誤りかと思われる。
N-IK-2011-001 河北新報2011年1月24日 2011 河北新報社 コラム「河北抄」において、「仙台 本のはなし 24人でつくりました 仙台文学館ゼミナール2009?2010本作りワークショップ」(管理番号:N-VA-2009-001)を紹介しており、「人前にはめったに出ない仙台市の前衛芸術家、糸井貫二さんのインタビューもある。」という文がある。
N-IK-2011-002 河北新報2011年5月16日 2011 河北新報社 無記名コラム「河北抄」において、糸井貫二のプロフィールと、記者が糸井を訪ねて震災後の生活について問答した様子が記されている。
N-IK-2011-003 河北新報2011年8月18日 2011 河北新報社 無記名コラム「河北抄」において、パルコ仙台で開催された岡本太郎生誕100年記念展に絡めて、大阪万博太陽の塔前を裸で走った糸井貫二を紹介している。「彼のパワーと言動に、勇気と行動力をもらった。シュールレアリスムの作家の中でも突出した人だった」と糸井が岡本について語ったという言葉が引用されている。
N-IK-2011-004 河北新報2011年11月28日 2011 河北新報社 『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(管理番号:B-IK-2011-001)を紹介した「SMMA編「せんだいノート」出版 文化の宝庫 まち再発見」という記事内に「通称「ダダカン」で知られた前衛芸術家・糸井貫二さん(仙台市)の90歳を過ぎた、ひょうひょうとした暮らしぶりも写真で紹介している。」という文がある。
F-VA-2012-001 「2012年・ゼロ・アートプロジェクト/2012仙台アンデパンダン前夜祭」フライヤー 「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」実行委員会 2012 「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」実行委員会 A4両面カラーのフライヤー。片面には、2012年5月4日-7月1日にギャラリーターンアラウンド、SARP等仙台のいくつかのギャラリー等で開催された「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」の情報掲載。もう片面には、2012年5月15日-5月20日にSARPで開催された2012仙台アンデパンダン前夜祭の情報掲載。SARPスペースAにおける宮城輝夫、糸井貫二、石川舜、翁ひろみの作品展示、5月20日のSARPにおける「ダダッ子貫ちゃん(ロングバージョン)」上映、6月2日のSARPスペースBにおける「画家・石川舜トークイベント」等の情報が掲載されている。
M-VA-2012-001 S-meme04現代美術と地域 五十嵐太郎発行者、出原日向子、伊藤幹、大内まさ敏、大沼久美、川村亨太、筒井としい、斧澤未知子編集制作 2012 せんだいスクール・オブ・デザイン 宮城四郎関連資料2(1946年以降発行/発表分)ページ、管理番号M-VA-2012-001参照。
N-IK-2012-001 河北新報2012年5月31日 2012 河北新報社 「美術」欄の「2012仙台アンデパンダン展」という記事において、1964年の仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「前衛的な絵画など約110点が並び、「ダダカン」こと糸井貫二が頭部を包帯巻きするパフォーマンスを行った。」という文がある。他、「エノマでは、糸井にオマージュをささげた青野文昭の作品、何かの痕跡のような線が入った千葉洋幸の抽象画が目を引く。」という文がある。
N-VA-2012-001 河北新報2012年5月17日 2012 河北新報社 「仙台アンデパンダン展 22日開幕」と題した記事において、「仙台アンデパンダン展前夜祭」に宮城輝夫、糸井貫二、石川舜、翁ひろみの作品が展示されていることが紹介されている。
M-VA-2013-001 S-meme05地方都市の美術とツーリズム 五十嵐太郎発行者 2013 せんだいスクール・オブ・デザイン P1-2に高橋彩宮城県美術館学芸員の仕事は編集と似ている」掲載。当時宮城県美術館学芸員であった三上満良へのインタビュー内容をまとめた文章である。P7-8、弓削健太郎「タノタイガ個展「風が吹くとき」WHEN THE WIND BLOWS」に関本欣哉の名前が出てくる。P11-12に椚座基道「青野文昭スタジオヴィジット」掲載。P15-18に鈴木直樹「宮城県現代美術史 後半」掲載。現代作家クラブ結成、西公園アートフェスティバル開催から2013年当時までの宮城県の芸術活動の流れを概説した文章である。文中、石川舜、鈴木征一、長谷部昭義、豊島重之、宮城輝夫、糸井貫二佐々木正芳、米谷栄一、吉野辰海、村上善男、井手則雄、土屋瑞穂、齋正弘、高山登、武田昭彦、二宮不二麿、中本誠司、椎名勇仁、青野文昭、関本欣哉らについて触れている。なお、奥付の「執筆者一覧」において、鈴木直樹のプロフィールに「1981年、北海道生れ。」とあるが、「1980年」の誤りである。
N-IK-2013-001 河北新報2013年3月31日 2013 河北新報社 「表現自由の無審査公募展 作品募集」「5月21日から・仙台の6会場「アンデパンダン展2013」」と題した記事において、1964年の仙台アンデパンダン展について説明した箇所に「前衛的絵画など110点が並び、糸井貫二さんのパフォーマンスが話題になった」という文がある。
N-IK-2013-002 河北新報2013年5月26日 2013 河北新報社 「自由な表現、個性発揮」「仙台の6ギャラリーで「アンデパンダン展」」と題した記事に「ターンアラウンドでは、64年のアンデパンダン展でパフォーマンスを披露したダダカン糸井貫二)=仙台市=さんが雑誌の切り抜きなどをコラージュして郵送する「メールアート」を出品。」という文がある。他、斉藤文春、翁譲の作品への言及がある。
N-IKMT-2013-001 河北新報2013年9月10日夕刊 2013 河北新報社 「増子静さん個展」と題した記事掲載。2013年9月10日から15日までギャラリーターンアラウンドで開催された増子静個展「晨星の深夜の蜃気楼~煙人との会話2 一瞬と永遠」の紹介記事。「恩師の画家、故宮城輝夫さん(白石市出身)ら亡くなった知人や家族にささげた作品、糸井貫二さん(仙台市)ら芸術家仲間の作品もある。」という文がある。
O-IK-2014-001 「中島由夫シンドローム」アンケート 2014 2014年6月8日-22日にギャラリーターンアラウンドで開催された「中島由夫シンドローム展-ダダカン師へのオマージュ-」において配布されたアンケート用紙。糸井貫二へのメッセージを記載する欄がある。
B-IK-2015-001 日本美術全集第19巻戦後~一九九五拡張する戦後美術 椹木野衣責任編集 2015 小学館 掲載図版の120番目、「第三章 戦後の「混沌」」に、糸井のパフォーマンス写真(1970年9月20日、仙台の糸井自宅付近で羽永光利が撮影したもの。本来横長の写真だが、縦長にトリミングされている)が掲載され、「殺すな 糸井貫二1970(昭和45)年」というキャプションが付されている。「図版解説」のP260に福住廉による、同パフォーマンス/写真、そして糸井貫二についての解説が掲載されている。椹木野衣「よみがえる「戦後美術」―しかしこの車はもと来た方向へ走っているではないか」の文章中、「そして大阪万博へ」の章のP179に「路上での発表では裸体をさらす活動が一世を風靡したことが特筆に値する」とのことで、グループGUN、ゼロ次元と共に糸井の名前が挙がる。また、同文章中、「ポスト・フェストゥム(祭りのあと)」の章のP181に「万博芸術へと合流した」表現者の名前が挙げられていく最後に、「また、これらに公然と反旗を翻したゼロ次元や『太陽の塔(カラー図版103)の直下を裸で走り抜けて逮捕された糸井貫二までを含めれば、まさしく大阪万博とは、日本の戦後における百花繚乱であり、同時に最大の百鬼夜行でもあった。」という文がある。「年表」のP302に、1970(昭和45)年の、「4・27」に「 糸井貫二、「お祭り広場」を全裸で疾走し逮捕」、「この年」に「糸井貫二『殺すな』(120)」(「(120)」は図版の番号を表す)とそれぞれ記載されている。「LIST of PLATES 作品リスト」のP309に「120 殺すな 糸井貫二 Don't kill by Itoi Kanji」と記載されている。なお、宮城県美術館の所蔵品からは、高良眞木『土』、篠原有司男『おいらん』、長谷川潾二郎『猫』の図版が収録されている。
B-IK-2015-002 シルバーアート 老人芸術 鞆の津ミュージアム監修 2015 朝日出版社 櫛野展正「ジイさんアートの「生きざま」が未来を照らす」のP9に糸井貫二への言及がある。P49-64に「糸井貫二ダダカン) 裸身で最前衛を走り抜ける伝説の芸術家」と題し、糸井の生涯をたどるモノローグ風に編集された文章が掲載されている。また、糸井の三点倒立パフォーマンスや鬼放舎、糸井の作ったオブジェ、メールアート、日記等のカラー写真が併せて掲載されている。P169の「写真クレジット」によると、写真は、田中由紀子、櫛野展正、小﨑基広、鈴木由美子、羽永光利によるもの。
B-IK-2016-001 現代詩文庫229田野倉康一詩集 田野倉康一 2016 思潮社 「詩集〈真景〉から」(「真景」には「イメージ」とルビが振られている)のP91に、「ダダカン」という言葉が現れる詩「帰還」掲載。「真景 イメージ」(管理番号B-IK-2009-001)に掲載された詩を再録したものである。
B-IK-2016-002 ビオクラシー福島に、すでにある 平井有太 2016 サンクチュアリ出版 P90-103に、平井による糸井貫二への2011年7月11日のインタビュー「糸井“ダダカン”貫二」掲載。糸井が自身の生活や生涯、放射能原発についての考えを語っている。
B-IK-2017-001 最後の場所 現代美術、真に歓喜に値するもの 南嶌宏 2017 月曜社 信濃毎日新聞2010年12月19日号に掲載された「[書評]黒ダライ児『肉体のアナーキズム』」がP496~P497に収録されている。P496に「肉体表現といっても、それは演劇やダンスのことではない。大阪万博の《太陽の塔》の前を裸で走り回ったダダカンこと糸井寛二の、あのアナーキーな行為を思い出してほしい。」という記述がある。資料によって誤差があるが、実際は、糸井は15メートルから30メートル走ったところで警察に確保されたようであり、「走り回った」は多少誇張された表現である。また、名前が「寛二」と誤記されている。
N-IK-2017-001 河北新報2017年9月29日 2017 河北新報社 「芸術は自由だ」「誰でも出品 アンデパンダン展開催」と題した記事に、「会場の一つ、ギャラリーターンアラウンド(青葉区)では、仙台市の前衛芸術家「ダダカン」こと糸井貫二さん(96)が雑誌の切り抜きや手紙をコラージュした「メールアート」を出品。」という文がある。
N-IK-2017-002 河北新報2017年9月30日 2017 河北新報社 「気軽にトーク」欄の「私のアイドル」「芸術家のダダカン」と題した記事において、自営業の57歳の女性が糸井貫二への敬愛の念や文通をしていた経験を語っている。
B-IK-2018-001 1968[1]文化 四方田犬彦編著 2018 筑摩書房 椹木野衣による評論「美術 祝祭、狂乱、共闘、流転」の「騒乱するハンパクの肉体」において、P37-40(P38、39は図版)に「ダダカン糸井貫二)、ゼロ次元(加藤好弘、岩田信一、38-39頁)、ビタミン・アート(小山哲生)、クロハタ(松江カク)、ガリバー、薔薇卍結社、告陰、秋山祐徳太子などによって代表されるハプナーたちが結集した集会(たとえば「狂気見本市」)では、悪ふざけと紙一重のパロディ、全裸、糞尿投げ、焚き付けまでもが入り乱れた。」、P41に「そのうち、もっとも象徴的な行為として挙げられるのが、万博の開催中に先の「太陽の塔」の直下を全裸にサングラスで走り抜け、警備員に取り押さえられたダダカンによるハプニングであろう。」という文がそれぞれある。巻末の「年表1968~1972」の「1970年4月27日」に「ダダカンこと糸井貫二が万博のお祭り広場のなかを全裸で走り、警察官に取り押さえられる。糸井は1964年の東京オリンピック時代より、裸体パフォーマンスを一貫して実践してきた。」という記載がある。
N-IK-2018-001 河北新報2018年7月4日 2018 河北新報社 「表現自由 アンデパンダン展 仙台・9月26日から」「作品募集 7月20日まで」と題した記事において、1964年に開催された仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「前衛的絵画など約110点が並び、糸井貫二さんのパフォーマンスが話題になった。」という文がある。
F-IK-2020-001 ダダカンの「殺すな」展」フライヤー 2020 前期:2020年11月13日から2020年12月9日、後期:2020年12月24日から2021年1月31日にカフェ・ゴダール・ギャラリーで開催された、糸井貫二の100歳記念展のフライヤー。
N-IKMT-2020-001 河北新報2020年10月5日 2020 河北新報社 コラム「河北春秋」において「せんだい21アンデパンダン展」のことが紹介されている。1964年に開催された仙台アンデパンダン展を説明した箇所に「赤いふんどし、体に巻いた包帯…。そんな男と学生2人が裸で仙台市中心部を練り歩いたので、皆が驚いた。1964年秋。男らはパン屋に入ってこう叫んだとか。「仙台アンパン、バンザ~イ!▼『箆棒な人々』(竹熊健太郎著)の中で、画家の故宮城輝夫さんが回想している。男は前衛芸術家の「ダダカン」こと糸井寛二さん。」という文章がある。糸井の名前は「寛二」と誤記されている。
B-IK-2021-001 東京ゴースト・シティ バリー・ユアグロー著 、柴田元幸 2021 新潮社 小説。P223~P233「その21 東京三点倒立」に「ダダカンの若いときの幽霊」が出てくる。P235にも「ダダカンの若いころの幽霊」への言及がある。裏表紙のイラスト左下に糸井貫二らしき人物が描かれている。
E-IK-2021-001 ダダカン イトイカンジ個展 Paper Penis Exhibition 糸井貫二著、小池浩一編 2021 HOLON BOOKS 2017年9月2日から9月10日に仙台のホロン・ギャラリーで開催された糸井貫二のペーパーペニス展の作品と製作風景の写真を収めたカラー図録。
F-IK-2021-001 「ナラティブの修復」展パンフレット 2021 2021年11月3日から2022年1月9日にせんだいメディアテークで開催された同展のパンフレット。ダダカン連の略歴を掲載。
F-IK-2021-002 「ナラティブの修復」展会場案内 2021 2021年11月3日から2022年1月9日にせんだいメディアテークで開催された同展の受付で配布された会場案内。会場の平面図、ダダカン連の声明と糸井貫二の略歴を掲載。
M-IK-2021-001 トーキングヘッズ叢書(TH Seires)No.85目と眼差しのオブセッション アトリエサード 2021 アトリエサード 志賀信夫「陰翳逍遥《第41回》」のP50-51に「ダダカン一〇〇歳記念展」と題された文章と2020年11月から2021年1月に開催された「ダダカンの『殺すな』展で展示されたと思われる写真やメールアート等のモノクロ図版3点が掲載されている。文章は表題の展覧会について直接触れておらず、糸井貫二の経歴や、その表現の周辺の動向について簡単に紹介したものである。
N-IK-2021-001 朝日新聞2021年12月25日(宮城版) 2021 朝日新聞社 宮城県の地方版の29面に「ダダカン表現者の足跡 糸井貫二さん、作品展のさなか逝去」という記事が掲載されている。執筆は福岡龍一郎。糸井の経歴を紹介し、当時せんだいメディアテークで開催中だった「ナラティブの修復」展でのダダカン連の展示に至るまでの経緯をダダカン連の細谷修平、三上満良とせんだいメディアテーク学芸員の清水建人の言葉を引いて記している。羽永光利撮影の「殺すな」パフォーマンスの糸井の写真パネル前にいる三上の写真、三上が撮影した「2011ねんごろ」の糸井が自宅でサングラスをかけて座っている写真、「ナラティブの修復」展を観に来た糸井の写真、計3点の写真が掲載されている。なお、同記事は朝日新聞デジタルにも、「表現者ダダカン、その足跡と戦争体験 地元では「黙殺」された過去も」というタイトルで掲載された。
N-IK-2021-002 河北新報2021年11月9日 2021 河北新報社 せんだいメディアテーク20年で企画展」「コロナ下の語り 提案」「「ナラティブの修復」東北ゆかり10組参加」」と題した記事に、「「ダダカン」こと市在住の前衛芸術家糸井貫二さんの作品や日記帳、私物を集めた有志企画による特設コーナーもある。1970年大阪万博で、パビリオン「太陽の塔」の前を裸で走り物議を醸したパフォーマンスに使用した帽子などを展示している。」という文章がある。

2023年2月15日公開